ガラクタギター博物館
THE JUNK GUITAR MUSEUM MATSUMOTO
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原山ギター製作所 名器を支えた伝説の職人

原山ギター製作所  名器を支えた伝説の職人 原山則勝氏



松本の木工産業が盛んだった1950年代、若くして家具職人を目指した男がいた。原山則勝氏。 その卓越した技術で、松本のギター産業の黎明期である1960年代以降、数多くのギター・メーカーとそれらブランドを陰で支えてきた松本ギターの第一人者といっても過言ではない。

アイデアに溢れ、常に創意工夫を凝らし、限られた設備で効率よく品質の良い製品を数多く作り、時には治工具を考え、そこから作られる製品は誰もが一流と認めるものであった。
それはまさに天賦の才であったといえる。

自他共に認める生粋の職人であったが、その腕前は勿論、温和な人柄を慕う人も多い。

若くして松本木工(マツモク)の製造責任者に抜擢されたことからもその非凡さが窺える。
ギター製造については、1963年には富士弦楽器(フジゲン)のOEM生産に最初に関わった。これがマツモクでのエレキギター製造のはじまりでもあった。

その後湧き起こる第一次エレキブームの真っただ中に、数多くの国内外ギター・ブランドを試作し、そのピークの1965年で独立し原山ギター製作所を立ち上げたが、会社からの熱望により暫くはマツモクとの掛け持ちでの二足のわらじで勤めた。

立ち上げたばかりの原山ギターは当初、夫婦二人と従業員一人でクラシックギターのブリッジ製造からスタートした。ネック作りにおいてはその才能をいかんなく発揮し高品質なものを作り続け、マツモク及びフジゲンのネック製造を請け負っていた。

さらに1976年、ESP立ち上げに際し、渋谷社長、椎野氏他からの熱心な申し入れによりESPの生産がスタート。立ち上げ時から原山ギターが製造の拠点であった。

そして1978年。満を持してオリジナル・ブランド、Jaramar(ハラマー)を発売する。当時としては驚くほどのコストパフォーマンス・ハイクオリティなギターだった。しかしたった2年間のみの生産だったため、いつしか幻のギターと言われるようになる。

そしてロック全盛70年代80年代、並行して国内外メーカー、ブランドのネックのOEM生産を請け負い(KRAMER, ESP, SHECTER, Dimarzio, Mighty-Mite, MOON, TOM ANDERSON, 女神工房 Greco, Fender Japan, Ibanezその他、大小様々のブランドに直接または間接的に関わり、厚い信頼を得ていた。

後年、会社を後進にまかせて社名を(有)ウッドカンパニーに改名。その後も事業を継続していたが惜しまれつつも201212月をもって廃業した。


以下の記述はそれまでの約60数年間のキャリアをご本人に振り返っていただいたものです。(古い記憶を辿りつつまとめたものです、多少の前後がありましたらご容赦ください)




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昭和5年(1930年)南安曇郡生まれ。4人兄弟の3番目として、裕福ではなかったが楽しい少年時代を送った。 当時の安曇野は何もなく貧しい地域だったが、小川で遊んだりした思い出があるそうだ。
幼少の頃から工作が好きで、小学校5〜6年の時に、缶詰の缶を切ってモーターと乾電池をつけてクルクル回るおもちゃを作ったり、鉱石を買ってきてスパイラルコイルを自分で巻き、屋根にアンテナを張って、兄貴が東京の日本無線に勤めていてレシーバーだけあったから、それで鉱石ラジオを作った。

また、家の前に小川が流れていて、水車を作った。でもただ回すだけでは面白くなくて、木を切ってベルトと錘をかけて杵が落ちるようにして楽しんでいた。しかしそのままにして寝てしまったら翌朝増水して流されてしまったらしい。

また望遠鏡も自作し、家から見える東の山の部落をみたり、戦時中で電球が買えない時代、公民館に夜、電球を外しに行って、それと交換で100W電球を買って箱で幻灯機を作り、白い幕を張って写真を写して楽しんだりもした。(当時は切れた電球と交換で無いと新しい電球を買うことができない時代だった)

このように、自分がもっているものや機械で何かを作り上げるという才能に恵まれていたのである。そういうことが好きな悪戯な少年時代だった。
両親、兄弟と(右から3人目のスーツ姿が則勝氏)

終戦間際の昭和20年(1945年)小学校を出たらすぐに芝浦に入り、航空機のタービン製造をした。当時は学徒動員で沢山の学生がいたそうだ。

そして博労町(現在の本庄1丁目近辺)に中島木工という製材所の傍が建具屋で、そこで建具を覚えれば面白いだろうと思って入った。ところが終戦前後の“産めよ増やせよ”という時代で人口が増え、学生が増えたために机の注文がたくさん来てしまった。そのため、いつまでも学生の机ばかり作っていることが面白くなく、そこは3か月で辞めてしまった。

翌、昭和21年(1946年)信州木工に入り、さらに昭和22年に栄町(現在の大手近辺)にあった関東企業に入る。当時は隣に東洋計器があったそうだ。 関東企業では洋家具を作っており、そこの土屋氏から「ここに居たんでは仕事を覚えないだろうから、良いところを紹介してやるが行かないか?」と言われたが若気の至り、さほど乗り気ではなかった。当時、山が好きで、机を作ってお金をもらうとそれを持って山へ1週間くらい遊びに行ってしまい、帰ってきたら松本の日銀ができた時で、支店長の机の仕事を受けてあったが、山に行ってしまったものだから作れず親方から叱られたそうだ。
土屋氏は東京高等工芸学校(現 千葉大学工学部)卒で、同じ学校を出た池田三四郎がいた。(後の松本民芸家具設立でつとに有名)

当時は、大名町通りにある、お城の形をした古本屋“青翰堂書店”で古本を買っては、昼休みに一人で弁当を食べながら読むのが楽しみでよく通ったそうだ。

1958年 兄弟と

その頃、今の奥さんと知り合う。まだ10代だったため結婚など考えていなかったが、栄町から天神を通った時にたまたま朝よく行き合った。そんな縁でマツモクへ紹介してくれないかと頼まれ、世話したのがきっかけで後に結婚することになる。当時の奥さんはマツモクで塗装の修正の仕事だったそうだ

信州木工の下請けをやっていた時は青山さん、細川さんと3人で家具を作っていた。
その頃の占領時下の日本は進駐軍用の家具がないため、整理タンスとかを信州木工で作っていたそうだ。 そこへ信州木工の塚田氏がよく下見に訪れていて、後にそこが松本木工となる。

ある時、塚田氏が工場長をやっている時に火災を起こし、責任を取らされるもめごとがあってから独立し栄町で松本木工をはじめるということになる(松本木工設立は昭和262月。南松本へ移ったのは昭和353月から。またギター製造は昭和384月からとなっている)



昭和26年(195121歳で松本木工(マツモク)へ入社。マツモクができてから3ヶ月後のことだった。マツモクは当時はまだ栄町にあった。その頃の町工場は、世の中の景気の波にもまれてやっていけなくなっていた。それでマツモクはシンガーミシンと提携することになる。
マツモクは、当時の松本市の工場誘致の第一号で、南松本駅の南側に位置する近代的な工場だった。

マツモクができた時に一緒に入らないかと言われたが、明けても暮れても仕事が同じでテーブルばかり作っているのは面白くないから入りたくなかった。とりあえず辞めて行くところがないからお手伝いのつもりで最初は行ったそうだ。

マツモクが移転する前の栄町に合った頃の塗装工場

1960年 並柳に新工場完成。







塚田さんが社長をやっていたが、シンガーから人材が送り込まれてきたり、日本精工所がマツモクの親会社というか納めていて、そこから資本が出て、シンガーからも資本が出て、社長が送り込まれた。木工技術は塚田さんがミシンテーブルを作っていたからそのまま重役で残った。
その頃はまだシンガーミシンのキャビネットが主でギターは作っていなかった。

そうこうしているうちにミシンテーブルもテーブルからポータブルタイプ移っていき、そのうちそれも木製からプラスチックに変わっていった。そういう時代の流れだった。それでは食っていけなくなるということでマツモクでは多角化を図り、多方面の製品づくりも始めた。多角化に際し、試作室ができ、原山氏に辞令がでて、しばらくは一人でやっていた。ワシントンの靴の工場にゴルフのヘッドを作るためのコッピングマシンを見に行ったこともあったそうだ。

「ステレオもやったし電子オルガンもやった。ビクターやコロンビアは良く行った。ビクターの電子オルガンのキャビネットを作った時はずいぶん苦労したね」「加工技術って言うのはね、昔の人は大工さん建具屋さんにしても家具屋さんにしても、師匠にお金をもらわず何年か習ったというのがあった。僕はそれをやらなかったんだ。見て覚えた。」と原山氏は語る。

松本木工ではその頃、計算機というあだ名の東大出身の経理の人と、上司にあたる百瀬氏がしょっちゅう口げんかをしていたとのことだ。 百瀬氏は士官学校卒で、先の社長の息子。本来なら軍隊のエリートになる人物で頭も良かったが技術的なことができなかったため、技術的に長けた原山氏をよく出張で得意先に連れて歩いてくれたことが見聞を広める意味でも大変役立った。

ヤマハ、カワイ、塩田鉄工所、浜二の塗料工場などの色々なお得意先に汽車で連れて行かれた。
また汽車だと提携先でパインミシンの日本精工所の本社の宇都宮に行くのに8時間もかかった。そこでの長旅は重役たちと一緒の席に座っていると話が聞こえ、技術はあったが学歴がなかった原山氏には経営の勉強に大変役立ったようだ。(ただ、英語だけは戦争中で、学校では敵国語は禁止だったため習うことができず、後々まで苦労したそうだ) 

その頃、僕は2,3年したら仕事も覚えて、別に年季入れたわけじゃないけどね。24歳の時に組み立ての責任者にさせられた。その頃は軍隊から引き揚げてきた人が何人もいたんだけど、僕よりも年上の人ばかり。 もう仕事は何でも知っているような連中だけど、ミシンとなると勝手が違ったんです。でもそこではそんなの関係なく仕事ができればということで僕が選ばれた。最初は年季奉公した職人が責任者をやっていたけど、人員が増えてくると、職人が人を管理するのは難しい。それで僕が代理をやっていたわけ。 その頃は、たとえば上司の責任者に 「今夜これやらないと明日の段取り悪いからやっておいた方が良くないですか?残業する人頼まないといけないけどどうしますか?」と上司に言うと、「そうだな・・・おまえがやってくれや」っていうわけ。 僕がそれを頼みに行って、残業手当を書いて親方に渡して会社に出して・・・ってやっているうちに24歳でそこの責任者にさせられちゃったわけ。あれでもってすっかり胃をこわしちゃってね・・みんな年上が多いし、同じ年齢の仲間とは一緒に工場で鬼ごっこしてかけずり回ったりしていたのにそれもできない。仲間でも立場が違ってしまうと気を使って変わってしまった。

マツモクの多角化は南松本に移ってからだった。 原山氏は徐々に会社を辞めることを考えるようになる。
外人は来るけど英語できないでしょう?外人が56人来ているのに通訳がいない。あのころは大学を卒業しても仕事がなくてね。梱包かなにかお臨時で来ている人が外人と話しをてるのを聞いたら、あれは大学出だっていうわけ。 だけど、自分の能力は自分で一番分かるから、ここにいるべきじゃないなって思ったのはその頃。

組立をやっていても製品が悪くていいものができない。組み立てにきてからノミで削ったり・・そんな状態じゃあ、社内検査、親会社の検査、検査協会が来て検査して、規格の数パーセントに達しないとロットアウトで300台とか全部アウトになっちゃう。 そういうことがあって組み立てにいたらとてもじゃないけどもたないと思った。やはり体調を崩し、信大病院に通って、医者から「お前は胃潰瘍だ、腹を切ることになるがどうする?」と言われたのもその頃。腹を切るのは嫌だったから薬で治した。

百瀬さんの下で僕も組み立てを8年間やっていたかな。 その頃は第一製造課、第二製造課には分かれていなかった。そこで製造の組み立てを責任者としてやった。僕と同い年の中林さんが塗装の管理職だったが、後に僕よりも若い古家さんが塗装の管理職だった。 
後に製造は二つに分かれ、第一製造課には百瀬課長と僕が主任。第二製造課は塗装と組み立てとなった。

作業員も50人くらいになり、いつまでたっても品物が良くならないんで僕がいつも苦労するわけ。それでこの会社では勤まらないと言って辞表を出したんだ。でも、その時は木工技術が必要だったと思うんです。百瀬さんから第一製造かに来ないかと言われ、皆の前で勝手に今度来ることになった原山君だと紹介されて、仕方なく「数年で辞めるつもりでしたけど宜しくお願いします」と言った。 そして僕が工程の改善をして効率が上がったら、今度は製品が間に合い過ぎて途中の仕掛が山積みになって、すぐ完成させないため接着不良になってしまった。そこで、この部署はもういいから試作室に行けと言われた。

(百瀬さん: フジゲン横内氏がマツモクにエレキギターのOEM生産を依頼に行った時に同席していた原山氏の上司。 余談だが、三村社長ではとても交渉などできるはずもなく、横内氏が毎日のように行って百瀬氏と細かな打ち合わせをしたらしい)
(古家さん: 現 フジゲン副社長)
中央が百瀬氏 右が原山氏

僕はビクターに行ったこともある。 八王子、神奈川にもステレオのキャビネット工場があった。
その頃マツモクでミシンテーブルの仕事をしているとき、技術課が出来たばかりでした。治工具を作り、流れ工程の作業改善をした。 あの頃日本コンサルタント協会がビクター工場のコンサルタントに入っていた。 マツモクの平野社長とビクターの社長とは友達でした。 ビクターの神奈川のステレオキャビネット工場が、マツモクの工場は整然としてやっているのに、あそこはいつもトラブルをおこしているから面倒をみてやってくれんかといわれ、ビクターに2週間技術指導に行った。
横浜鶴ヶ峰ビクター工芸ステレオ工場にて
ビクター八王子工場の電子オルガン ビクトロン

帰る時、ある料亭でビクターの皆川工場長に、「原山さん、マツモク辞めてウチに入ってくれないか」と言われた。だけど僕にしてみれば天下のビクターで恐れ多くて断った。そういえばビクターの橋幸男のギターもマツモクで作ったんだよ。そのつながりでマツモクもオーディオ・キャビネットをやった。その他にサンスイ、コロンビアのスピーカー・キャビネットをやった。

多角化を考えていた時に、僕は現場から引き抜かれて技術課に入った。林君より何年か早かった。その頃たまたまフジゲンさんからこういうものを作ってくれないかと持ち込まれたのがエレキギターだったんですよ。
(林氏: 現アトランシアの林信秋氏。 後に技術課を引き継ぎ名器PE1500などを設計)

林君とは、会社から勉強のために1960年代、東京へアマチュアコンサートを観に行かされたことがあった。100Wくらいのアンプで、それは凄い音量で頭が痛くなったよ。そのうち観客が興奮してステージに上がって踊ってた。驚いたね。 そして、山の楽器へ行って、ショーウインドウのフェンダー・ストラトキャスターを、ガラスに頭をこすりつけて見た。 林君と塗装や作りの参考にしたよ。やはりいいものを見ないといいものは作れないんだ。

マツモクで一番最初のクラシックギターは佐野氏ともやった。エレキギターは岩倉氏と次に望月氏が図面を描いていた。マツモクでギターをやるようになってからは試作専門でした。また海外のバイヤーから渡されたギターと同じものを作った。

原山氏は当時先行していたヤマハやゼンオン、河野ギターなどを分解して解析。特に合板全盛の時に河野ギターは単板で、ブレイシングなど参考になったようだ。試作したクラシックギターは長野市で行われたギターコンクールで通産局長賞をいただいた。当時日経新聞がマツモクに取材に来たが、会社ではウチは下請けだから取材はいらないと断ってしまったそうだ。これをきっかけに独立したらクラシックギターの製作家になることを考えた。それは金属部品が少なくても出来るということもあった。

その時のクラシックギター試作品。マツモクの試作室にて




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(富士弦楽器とのファーストコンタクトとエレキギター生産)

1963年 フジゲンの横内氏が百瀬氏に木材乾燥を教わりに行ったことをきっかけに、ボディ、ネック全ての木材乾燥をマツモクで請け負うことになる。(詳しくはフジゲン創成期参照)

最初、百瀬さんが呼ばれて社長室で会議やっている時に、仕事については原山君を呼んできてくれということで呼ばれた。 あの時横内さんと他に2〜3に人いたよ。 最初、出来るか?と言われた時に、やって出来ないことはないけれど・・・初めてのことだからね。 あまりいい返事はしなかった。結局やることになったけどね。

ギターをやったのは、フジゲンさんのものは木部だけマツモクでやってフジゲンへ納めた。ところがマツモクにも頭のいい東大出身が3人もいて、フジゲンさんだけに儲けられるのは困るって言ってマツモク自身でもやり出して。最初の相手はビクター、コロンビアだったかもしれない。荒井貿易もあった。

(ビクターは昭和39年(1964)から生産されたようなのでマツモクでは1年で自社ルートを開拓したことになる。ギターはSG-12C, SG-18 「しびれるような鋭い高音!ダイナミックな低音の迫力!」という広告だった)



左上の写真は、マツモクで主力だったモデルとの記述がある。これは富士弦楽器のEJ-1.まさにこれが最初のOEM品だったのかも知れない。他はビクターの歌手。


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(マツモク独自のエレキギター)

ギターは、僕が試作室にいて、電気関係は専門知識が必要だったから、啓陽の疋田さんが誰か違う会社の人と来てマイクの方の話をした。その疋田さんはマツモクから仕事をもらって女鳥羽のあたりかどこかで作ってマツモクへ納品して、マツモクでそれを完成品にしてビクターやコロンビア、荒井貿易に出荷していた。
(啓陽 松本市内のピックアップ・メーカー。 疋田氏は日本のエレキギター創成期以前の1940年代後半か1950年前後にアヲイ音波(後のテスコに技術者として在籍)

マツモクではほとんどOEMで、海外のバイヤーから頼まれたのをやっていた。ブランドは覚えていない。

1964年 マツモクの工務の一角に試作のための席が設けられた。
参考用と思しきGuyatone、FUJIGEN製ギターなどがつるされている貴重なショット!

ギターの図面については、松本工業出身の、成績が1番2番というのをとったけどすぐ仕事ができない。僕がちょうど職人でいたんで、最終的には、図面なんか描いてるよりも現物持っていって原山君に作らせた方が早いじゃないかということになっちゃって。僕が作ってからバイヤーに見せ、決まってから図面を描いていた。それは工業出た佐野さん、望月さんともう一人いた。 当時はギター製造に40人くらいいたかなあ。ネックやボディは別々で。僕がラインの治具を作ったよ。

試作室にはバイヤーもきて、僕は外人さんなんて知らないし、バイヤーはとっても偉い人かと思ってねえ・・外人は握手を求めるんだよね、僕なんか手に汗かくもんだからズボンで拭いて握手した思い出がある。
マツモクの工場内

その頃、会社の重役の人には東大を出た人が結構いた。高田さんはマツモクの前に女子高校の英語教師をやっていたらしく英語がペラペラだった。そのあと社長で入る人などは任期が2年くらいでかわるんだよね。 本当はマツモクでもギター作りにNCを入れるべきだった。でも重役さんは任期があるもんだから、冒険をして赤字を出すと自分の首にかかわるからなかなかやらなかった。そのうちフジゲンさんの方が先にやってしまった。

パーツは信越鋲螺で作ったことは覚えてる。当時、石曽根さん(社長)が塚田社長に呼ばれて、私が作ったオリジナルのトレモロのサンプルを渡して、原山さんにも作れるんだからこれを作れと言っていた。 このトレモロは相当売れたらしい。

ギターは天井から吊るされて流れるラインになっていたとのことだ。

あの頃、僕が不思議に思ったのはあの頃はどこでもコピーをやっていた。世界の有名なメーカーのコピーの試作は僕がやったんだ。

当時、原山氏は指板のRについて疑問を抱いていた。0フレットからハイフレットまでが同じRではおかしい、円錐形であるべきだと主張したけど、社内では誰もそれを理解してくれる人はいなかった。 

元々僕は独立しようと思ったのは林君が入って僕の部下になり、だけどいずれ会社だって長い年月経てば当然そういう時期が必ず来る。それは自分の人生の先が見えるじゃん。それならいまのうちに仕事が得意なんだから独立して自分でやった方が、と思って辞表を30歳くらいから出し始めたかなあ。 当時は社長から「私は40で独立した。まだ30で独立は早い」と言われたが、その時返した言葉は「社長、経営者は30では早いかもしれませんが、僕は職人です。40では遅いんです」と言った。

豊科のテスコ弦楽器は関係はなかったな。確か工場長やってた・・あれは・・俺のうちにアルバイトにきてた竹岡さんがね、テスコにいて長野楽器というのが新橋の辺りに工場ができて移り、そこの工場長か何かをやってた人で、その後違うところに移って工場長か社長をやってて、クラシックギターだったらできるということで、僕がマツモク辞める時に、誰か代りに技術を持った人を紹介してくれと会社から言われていて、彼を代わりにマツモクに入れて40年(1965) 35歳の時に独立した。
竹岡さんは下請けでバイオリンの弓を作っていた。 で、たまたま僕が納品でマツモク行ったらあいつは役にたたねえって言われて困ったよ。


1965年 長野市で開催されたという楽器ショウに訪れた。
GUYATONEのブースの前は老若男女の人だかり。アンプには1965年ザ・アストロノウツとザ・ベンチャーズのToGUYATONEサインがみえる。記録では1965年1月3日に合同来日公演があった。まさに最高潮のとき



TEISCOのホロウギター。Tのホールがイカス。 原山氏と娘さんがクラシックギターを見つめる。


今では聞いたこともないメーカーKYOMAY。(共鳴からとったのだろうか)
そして右はマツモクのVICTORのギターが並んでいる。学生も羨望のまなざし。


当時、今は無き中信楽器(当時もミシンテーブルなどの生産をしていたらしい)の社長から、給料30万円!でウチに来ないかと言われたが、当時、真っ黒になって働いていた重野さんをみたら僕なんかが途中で入って工場長とかになったんでは申し訳ないと断った。 あとで奥さんから、なんで断ったんだと言われたよ.

そして昭和401965年が木工機械を初めて買った時だった。最初僕と家内が一緒になった時は借家住まいで、家は一軒40万円くらいで、あの頃は給料が安くて月に5000円か10000円以下だった。木造の家を一軒建てて、ひさしを出してそこへ木工機械の吊るしカンナとプレナーと一緒になった万能機ってのがあったんだよ。それを一台買って内職をはじめたのが最初だった。

40万円で建てた最初の原山ギター製作所

2年間くらいは会社半分自営半分だった。 マツモクからは、お前にすぐ辞められては困るから現場の中から4人でも5人でも仕事を引き継がせろと、この間まで一緒にやってた古田君なんかも試作室に入れた。何人か試作室に入れたけど・・なかにはすごくギターが弾けるのがいた。60人くらいのギター教室開いてね。ギターうまいんだよね。けど仕事と弾けるだけじゃ違うので、結局技術課では役にはたたなかった。

独立して最初は山辺の方でやっていた。コマを作っていた。ブリッジサポーター。それはクラシックギターとかフェンダー、ギブソンとかヘフナーとか、マーチン型のとかも作った。マーチンのコマは特に売れたんだよ。まずは内職として始めて、ウチの母ちゃんと職人を一人頼んで出来るように段取りして僕はまだマツモクに勤めていた。そのころも会社を辞めさせてくれと言ったがなかなか辞めさせてくれなかった。
ブリッジを作る従業員

コマと名のつくものは全て作ったけど、ピックギター。あれに乗っかっている木部のブリッジサポーター。あれをどう作るか。一つくらいだったら手先の器用な人は作れるかもしれないけど、まとめて何百個を作ってくれっていったら作れないでしょ。あれを普通の木工機械で作れるようにしちゃった。ああいうのを考えるのが好きでねえ。でも何十年もやっていると手を怪我して指が2.3本無くなったりするけど僕は大丈夫だった。

この木製ブリッジが原山ギター最初の仕事だった。


僕の会社になってやったのは、個人で
3年〜5年 その後有限会社で18年、中村君に工場をまかして23年くらいやった。

マツモクの社長に、まだ当時はデタッチャブル・ネックだったフォークギターをセットネックで作って見せたところ、そんな手間のかかるものはいらないと一蹴されたが、数ヵ月後、やはり作ってほしいと言ってきたんだ。さらに社長からはマツモクの全ギターのネックを製作してくれと依頼され、一緒に梓川に工場用地を見に行ったことがある。 結局その依頼は断ったが、マツモクのクラシックギターのネックの仕事は全てやった。クラシックギターのネックを下請けしていた頃やワンピースネックをやり始めた時はとにかく忙しかった。

当時マツモクでは、楽器を弾ける人を育てる意味でも、定期的に会議室でギター教室を開いていた。講師は松本市役所に勤めていてギターが好きで、松本の音楽館の館長やっていた平林さんという人だった。幼い娘にも当時ギターを習わせた。
娘のギター発表会

マツモクからはお前にすぐやめられたんでは困る、会社半分ウチ半分で会社に必要な時は会社に来て、あとは家の面倒をみたらどうだと。で最初それでやっていたんだが、一年くらいたってからかだんだんウチの方が忙しくなってきちゃって、母ちゃんからこんなことやってたらもう離婚するって言われて。

そして会社にはほとんど行けなくなってしまって、それでもマツモクは給料だけは出してくれていた。だけどねえ・・会社行って仕事もしないで給料もらうなんていかないから会社に貰いに行かなかったら給料があるから取に来いと。 しかし仕事もしてないのに貰うわけにはいかないと。そしたらマツモクに国税局が入って、金庫の中をみたら個人の給料が何カ月も溜まってた。で担当者が国税局からお叱りをうけてしまい「原山さんが取りに来ないからみましょ。俺が叱られたじゃねえかい」って。 それでも会社に行ってないのに受け取るわけにはいかないと言ったら「それを言うんなら僕に言わないで社長に直接言ってくれ」となった。 それからマツモクへ行って塚田社長にこういうわけで会社には出られなくなっちゃったと説明した。 当時は会議室がね、ついたてとカーテンとテーブルがあって、打ち合わせやるようにいくつもあったんだよね。そこで塚田社長と百瀬さんが隣の打ち合わせ室に入ったんだけど、ついたてだから話声が聞こえて。「原山君があれだけのこと言ってたらもう諦めるしかないなあ」と聞こえてきた。人間って不思議だね、いよいよマツモクとも縁が切れるかと思ったら僕も後ろ髪を引かれる思いだった。

社長からは、但しその代わりの条件としてマツモクオンリーだ、他の会社の仕事はやってはならんと。

そのころの仕事は殆どコマだったねえ。マツモクやフジゲンさんからもコマの注文があって三才の工場へ納品にいった。当時は上條さんが資材担当で、三村さんが社長で、横内さんが専務で行くたびにニコニコとして手を振ってくれてねぇ。上條さんが受付で家内もコマ持って納めたりした。

三村さんからもたまには遊びに来いよって言うんで行ったら立派な家でねえ。ベッドにレースのカーテンなんかついてて。日本では見れない風景だった。とにかく横内さんには大変お世話になった。

当時は仕事はマツモクオンリーと言われていたので、フジゲンのネックをウチで作って、マツモクへ納品して、それをフジゲンに回すようになっていたんだけど、ある日突然、フジゲンの上條さんがウチへ来て、ウチで注文書出しているけどマツモクからまだ納品されない。原山さんからいつ出荷しているかと確認があった。そんなのはもうとっくに出荷しているので、なんで?と思ったら、マツモクは自分の会社で使っちゃっていた。(当時、ネックのことを一本棹と呼んでいたとのことだ)

それで直接フジゲンさんと直接やることになった。でも上條さんから直接やってと言われた時に僕もマツモクには長いことお世話になったんで、僕がマツモクさんと話をつけるまでちょっと待ってくれと言った。でもその後が大変だった。 オイルショックでその時にマツモクが、外注の仕事を一律30%カットするという話になったわけ。で、原山君のところへは100%出すからよその仕事はやらないでくれと言われた。ところが当時外注が20軒近くあったと思う。僕だけ100%で他はカットじゃ悪いし、会社の組織を考えると担当の立場もあるだろうから、よその仕事やらせてもらうけど了解してくれと言った。 僕もその頃になると従業員が何人かいて生活があるから、30%カットではこまるからよその仕事もやりたいし、ここは目を瞑ってよその会社の仕事をさせてくださいと言った。 で、それを受けるようになったんだけど、会社では最初話にならなくて、直接社長の家に菓子折り持って行って、こういうわけでよその仕事をやらせてもらうけど宜しくお願いしますと言ったんだけど、夜の12時過ぎまで社長に説教されちゃって。あのときはねえ・・平行線で結論出ないから、「気持ちは決めちゃっているので社長さんには悪いけど」と、帰ったら奥さんが玄関まで出てきて、「悪かったね、うちの父ちゃんは逃がしたくなかったばっかりにああ言ったけど、許して頂戴ね」と言われて初めて旨の龍院が下がったというかねえ・・社長にはあの時、「俺も、百瀬君も100%出すと言っているのに、それをよその仕事をやるってことは明智光秀にも勝るとも劣らねえぞ」と口から泡を吹いて言われちゃって・・ 昭和40年代だった。」 

マツモクさんとはこんなことがあった。 ある日、僕の作ったフォークギターのブリッジより岐阜の水野パーツのブリッジの方が安いから同じにしろと。僕は一個一個丁寧に、すぐ取り付けられるまでの仕上げをして作っていたし、他の仕事も忙しかったから、それならもう他でやってくれてかまわないと断った。で、他で作らせたようだったが、いざ製造となったらブリッジの高さが合わなくて、しかも仕上げをしていないためそれはマツモク社内でやっていたから、また岐阜に行ってたんではラインが止まっちゃう。あわててまた僕の所で作ってほしいと依頼された。なんとか間に合わせて、またこちらの希望価格でまたブリッジをやるようになった。

こんなこともあった。ある日、生産管理の若者が会社の指示でストップウォッチを持って製造時間を計りにきた。つまりこれだけの時間でできるからいくら、というのを測るためだったんだけど、僕の所は大量生産向きでない比較的手間のかかるネックの仕事が多かった。機械や治具を独自に改良してそれらを出来るようにしているのに、大きな会社のやり方と一緒にされたくないから一歩も入れさせず、その彼も会社から言われて来ているので玄関で押し問答になった。 僕は会社に電話して、事情を説明し、こういうことで彼を追い帰すがいいか?といって、結局はそのまま計測しないままで済んだんだ。

いつだったか忘れたけど、マツモクで一度火事を出したことがあった。 あれは、塗装室が線路わきにあって、塗装を塗ったばかりのギターのそばでガス溶接をして、あっというまにギターが燃えて・・・あの時は鉄道が止まってしまったんじゃないかな。




当時試作したピックギターと木型。

Gibson Super400コピー

このギターは原山氏がマツモク在籍時1963年頃?に試作したピックギター。

当事、何かのギターを分解して参考にしたとのことで、ボディ・トップはスプルースのアーチ削り出し、ボディ・バックはメイプルの合板。

確か13本試作した記憶があるとのことで、こんなエピソードがある。

ネックをセットして一晩置いたんだけど、当事の接着剤が水分を含んでいてね、朝になったら全部のギターのネックがジョイントから反ってしまったんだよ。どうしようか頭を抱えていたら、しばらくしたら水分が抜けてまた元通りになった。

結局、試作はしたものの、あまりにも手間がかかりすぎるため量産はボツになったとのことだ。

後日撮影したギター。弘法山にて




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(マツモクコピー全盛の時代)

1970年代のある日、フェンダーの棹を斉藤さん(ELK、神田商会、Fender Japan取締役)がマツモクへ持ち込んできて。最初はフジゲン経由で来た。来たときはただのワンピースネックの、これがどこでも出来ないって言っていた。もう僕は独立していて、納品に行ったら、たまたま会議を開いていて、フジゲンさんでも出来ないとフェンダーのギターが持ち込まれたけど、出来るか出来ないかとやっていた。そこで丁度いいところに来てくれたと百瀬さんに呼ばれて会議室に入った。そしたらマツモクの30人くらいで会議をしていて、目の前にフェンダーのギターが置いてあって、ボディはできるけどワンピースネックはマツモクではできないと困っていた。

原山君やってくれないかと言われた時に、この程度のものは僕がやったとしても23か月すれば皆どこでもやるようになると言った。そうしたらマツモクの中では誰もやれないというので、試作だけでもやってくれと言われて、最初に試作を15本くらい試作してマツモクに持ち込んで、神田に持っていった。それをフジゲンで完成品にして有名楽器店にだけばらまいたら凄い反響だって言うわけ。あっちこっちから注文がきちゃって困ると。マツモクではで出来ないというものだから、じゃあ原山君のところで最初できるだけでもやってくれと言われてやりだした。
(グレコのストラト系モデルのカタログでは1974年あたりからワンピースネックが登場しているのでそのあたりからかもしれない)

やり出したら斉藤さんからフェンダーのRつき指板(ラウンドボードのこと)のこういうのがあるよってローズのRつき指板を持ってきて、どうせフェンダーのをやるんだったら徹底してRつき指板やってみようということで、刃物を作ったりいろいろ治具を作ったりした。(これが1978のハラマーなどいくつかのブランドにも採用される。 それまで、日本では量産のラウンドボード指板は存在していなかった。原山氏が初めて作ったのである)

楽器業界はほとんど封建的でしょう。社長はガラが悪い人が多かった。つき合った中で紳士と思える人は荒井貿易の荒井社長だった。 ある日、僕が山辺でやってる時に娘が二階で手伝いしていたと思うんです。前の道が少し広くなっていてそこに大きなベンツがきて、サングラスにステテコで昇り鉢巻きした人が降りてきて、しかも4,5人で。そんな人が上に上がってきたもんだから父さん!父さん大変だ!って そしたらモリダイラのモリヘイさんだった。

70年代 あの頃はクラシックやフォーク、ウエスタンが売れていたんだよね。森平さんは最初山野の営業だったかな?フェンダーを最初日本に持ち込んだのは。 モリダイラさんといえば当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった。その時は特別取引をということではなかった...



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ESPのはじまり)

昭和49年頃(1975) ESPの椎野さん、渋谷さん、甲斐さん、三人で来てウチのをやってくれと言われたんだけど、もう僕はマツモクさん、フジゲンさんもいろいろ世話になっていて余力はないと断った。三人はいい条件を提示して、なんとか作ってくれと何度も頼んできて、最後は仕方なく受けることにした。 

マツモクに納品に行った時に会議室で3人が交流会か何かで演説をしていた。とても口が達者で凄いと思った。なぜ僕が選ばれたのか分からないが、すでにかなりの実績があったから僕のことを知っていたんだと思う。

ESPは、木曾の鈴木バイオリンをESPの工場にして、最初、工場長が僕のところに研修に来て教えた。 後に木曽福島の駅で待ち合わせてそこで納品をした。
ネックとボディは塗装の前まで仕上げた。

ESPが最初だったと思ったが21Fのツバ出しのネック。あれはだいぶ出たね。


当時のカタログには原山ギターの工房やストック場などが写っている。

出来たばかりのESPの前で 店長と当時の愛車。

当時の店内。 ずらりと並んでいるのはFenderやGibson。当時から高いが今はもっと高い!



Gibsonを抱える原山氏。

KRAMERはESP経由で、月にネックを15002000本くらいやった。 ボディを作ったのはESPが多かった。特にKRAMERの生産数は群を抜いていて本国アメリカへの輸出も多かった。(Eddie Van Halen本人用のネックもここで作ったことがあると関係者の話)



1980年代前半と思われる、原山ギター製作所 穂高工場の貴重なビデオ映像のキャプチャ。
クレイマーのバナナヘッドを製作する様子などが映っている。







セスナに載せてもらい上級から写真を撮る。

ESPから出たムーンコーポレーション。ギターも弾けた集団で、最初はムーン調子良かったんだよね。上田さんが社長で。野沢君はベースを弾いた。 乳井さんが最初どうしても頼むって言うんでムーンの仕事をやりはじめた。研修に吉田さんが来たな。吉田さんはなかなか良い腕をもっていたよ。

元々、はフェルナンデスで、ESPに移り、そこからシェクターに分かれてムーンを1978年、表さん、乳井さんが作ったのかな。シェクターのマイクの販売は野沢君が持ってきたものだが、ESPとは大分モメたようだった。

最初はウチからボディとネックを供給していたが、とても製造工程のこだわりがあって、1本1本の狂いが出ないような行程を望んでいたよ。 でも、ウチもその頃はマツモクやフジゲンで月数千本のネックを製造していたから、数十本ならいいけど、なかなか答えられなくてね・・その後、ヤマ楽器に製造を移したようだった。

フェルナンデスの始まりの頃、社長や営業の表さんと名古屋のクラシックギターを夫婦で作っている工場とか見学に行った。 そこでは月に20本のクラシックギターを作っていると言っていた。僕はクラシックギターの職人になるのが夢だったので、そのくらいが理想で参考にしようと見せていただいた。

そこでは、天井裏に木材をストックして乾燥させているというので見せてもらったらハカランダやいろんな材が沢山置いてあってすごいと思ったよ。

その工場は旦那さんが厳しくて、若い職人をすぐ物差しでピシャンとやるもんだからすぐ辞めていってしまうといっていた。

後にフェルナンデスでもエレキをやるようになったね。

 

松本のHEADWAYの現マスタービルダー、百瀬さんはとても良い腕の職人だった。僕もウチで働いてほしくて誘ったけど叶わなかったな。

(因みに百瀬氏は1962-1967まで富士弦楽器の職人だったとのこと)


MOONは特にベースが売れていた。



ディマジオのカタログから



ESP Charモデルの試作)

1978年にギタリストのチャー氏のシグネチャーモデル試作1号機が製作されたが、話はESPから来て、ヘッドデザインなどはESPから渡され原山氏が試作を行った。本人はすっかり忘れてしまっているが当時の関係者は話を聞いていたそうだ。その他、羽子板状のヘッドをESPに送っていた記憶があるらしい。



写真右は幻の“羽ヘッド”の試作品の一つとCharTのネック。(羽ヘッドのプロトタイプは本人に渡ったものと違いトラスロッドのヘソがない)どちらもラウンドボードが採用されている。






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原山ギターの知名度が上がると、日本全国から次々と若者が雇ってほしいとやってきた。

ある若者は北海道から、しかし、原山氏は、今は仕事もありいいかもしれないが、何れ下火になる日がくる。その時その若者が路頭に迷うようなことはできないと思い、両親は何と言っているのか聞くと大半の親は反対だと言った。公務員、医者、様々な家柄で、時にはわざわざ両親とも話しをして入るのをやめるように説得もしたという。

1977年に、荒井貿易でお茶の水担当で営業をやっていて荒井の中でもトップクラスだった田中君から手紙が来て、ギターが好きだから働かせてくれと。彼はよくやってくれたんだよ。最初はウチでハラマーの調律をしていたわけ。最初覚えるまでは大変だった。フレットのすり合わせしたらベタベタに磨られちゃって、「お前なあ、曲がってさえいなければそんなに磨るはないんだよ。フレットの飛び出しているところだけやれば、なんでもないところはそのままにしておいてビレさえしなければそれでいいんだよっていったんだけど、「ああそういうもんですか。だってギブソンの本物はみんなベタベタになってる」って(笑)

ヤマキにいた石橋君は山辺で完成品をやるようになるから来てもらった。
石橋氏は8年間在籍(現在はレッドハウス・ギターズ代表)日本でも随一の腕前のビルダーとして活躍中。
Red House Guitars

僕の当時の感覚とすれば、楽器産業のいきさつはわからなかったけど、クラシックギターやチェロ、バイオリンなんて一つの形に定着しちゃてるでしょ?誰が作っても音色さえ良ければ売れるよね。 で、意匠権や登録とか特許とかないわけだよね。俺はエレキでも同じだと思っていたんだけど、だんだんいろんな話を聞いているうちにコピーはまずい。 で、林君達は早く分かったっていうのは美術大学でデザインやっていたから、特に意匠権なんかは特に知ってるよね。僕は職人だからそういうこと知らないわけよ。あたりまえのことだと思ってた。

で、僕がやるとすれば、コピーはダメだと。 ミュージックランドKEYってあったでしょ。神田商会から、そこでさばくからと作ったレスポールの試作があったんだけど、一番はっきりわかったのは神田商会がフェンダーやるからこれはダメだよと。ギブソン系はだめだよということになっちゃった。 





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(幻のJaramar/ハラマー)



1978ミュージックトレード広告。 JST−900 JPB900

ハラマーは、厳選された素材を使い、とても贅沢なものだった。ボディはセン1ピース、ラッカー仕上げ、指板はエボニーのラウンドボード貼り、またはメイプル1Pネック。 ネックには豪華なフレイムメイプルが使われたものがあった。 この仕様で定価90,000円で売るのは破格だったといえる。まさに知る人ぞ知る幻の名器だった。

ハラマーのボディ塗装は三泰、ネック塗装は峰村塗装でやってもらった。ピックアップアセンブリーは日伸音波。

基本的には完成品まで製作されたが、最初のごく一部?の組み立ては東京の楽器店の2階や神田商会に送られて行われた事があったようだ。 当時富士弦楽器から神田商会へ出向中だった現Sugi Guitarsの杉本氏が組み立てをしていた記憶があると当時を語ってくれました。「全部じゃないけどやったのは30本くらいかなあ?工具が何にもなくて大変だったよ。せめてハンドルーターでもあればね」
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木材は田中建材さんとか、一回だけ海外からコンテナで買ったことがあった。ただ置き場が無いので、大町の大伸木材(現在のフジゲン大町工場の前身)の中村社長に頼んで置いてもらって、必要なだけをとりに行った。 当時は、工場で出た木くずを夜910時に積んでそこのボイラーで焼いてもらったよ。

僕がハラマーをやりだしたという噂が出ちゃったら、完成品ができる前に、神田商会の小嶋社長が来て、「原山君の所で作っているギターは全部ウチでいただく」と言ってきたんだ。値段はこれで行くと。本当は自分一人で自由にやりたかったんだよ。90,000円定価では売りたくなかった。
そして斉藤氏が1954年のストラトキャスターを送ってきて、原山さん、これと同じに作ってくれと。
特にネックが三角のにこだわっていたね。この握りが弾きやすいんだと言っていたよ。

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実際出してみるとハラマーは評判良かったんだよ。各小売店にはバラまくんだけど小売店の営業マンの人たちが持っていっちゃってあまり一般市場にはあまり出なかったようだ。

ハラマーの注文が一時途絶えていた時、 ある日、神田のトップ営業マンの村田さんがうちへ来て、調律の田中君が彼に「ハラマーも力入れて売って下さいよ」と言ったら、「ウチはグレコがかわいいんだよ」ときた。 それでピンときたのは、要するにこれが変に評判がでちゃうとグレコの評判が落ちちゃうと。でも、その時には生産数を150本に上げてくれといわれたけど、この値段では全く割に合わないので数を増やされても困る。それでもお金のない若い人たちに良いギターを使ってもらいたいという思いもあり月産30本だけとした。 しかし約2年で神田から取引できないと断られてハラマーは終わることになった。


(現在でも、ハラマーのネックは素晴らしかったと証言する人がいる。是非大事にしてほしいものです。そういう私も、3本ほどのネックを拝見したことがありますが、どれもびっしりと波のように奇麗なうねりのフレイムが入ったそれは見事なものでした)


原山氏が初めて量産に成功したラウンドボード。  そして見事な厳選されたハラマーのネック。



デカール3種。                      1ピースボディ。




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Rつき指板(ラウンドボード)はフェンダーでも最初はあったんだよね?斉藤さんが真似して出来なかったんだけど、フェンダーではどうやってたかというと、確か厚いローズ指板を機械に通してやるとRつき指板になって出て来たって、実際にフェンダーの工場で見てきた斉藤さんが言うんだよ。僕は専用機を作るだけの資本力はないから汎用機というか、刃物を作ってやれるようにしたんだ。

まずネックをRに削って、指板もRに削ってまた表面をRに仕上げた。特別厚い材は必要ではなく、通常の部材の厚さでできた。工具は自分で考えた。神田の斉藤さんがこれを持ち込んできた。

斉藤さんはエルクにいるころにギターを担当してて、社長はアンプ専門だった。アンプだけじゃいけないということでギターを作りだした。で、斉藤さんはかなり高級品を作った。エルクのネック(ヘッド)の形状は特殊でしたよね。 最初、斉藤さんはネックを180Rに削ったところに平らな3mmくらいの指板を曲げて貼り付けたと聞いた。R指板にみせかけてつくったんだけど、店はウインドウにギターを飾ってあるでしょう?ウインドウっていえば大概直射日光が当たるんで皆、指板が剥がれて浮きあがっちゃったっていうわけ。で、これは惜しいよな・・出来ねえかなって言うわけ。 で、マツモクもフジゲンもできなくて私がやってみた。 しかもハラマーでは黒檀指板でR付き指板で出した。でも僕はこんな値段では売りたくなかったんだ。 ただ、ネックの下請け仕事をもらっていたから、あまりべらぼうな高い値段で出すわけにはいかない。じゃあ言われたとおりでやるしかないなあと思ってやった。 但し月に30本しか作らないと事にした。 それ以降は他の自社ブランドはやらなかった。

その他、イシバシのオリジナル・ギターを何本も作ったが、変わった形のギターは売れなかったね。

R付き指板(ラウンドボード)とは

Fender1959~1962までの間に採用されたのがフラットなスラブボード。(ローズ指板)1962以降はラウンドボードを採用。 異なる木材を接着した場合の膨張率の違いによる変形を軽減。 製造効率と強化。結果としてサウンドに変化があり、ロッドの仕込みの精密化。サウンドはスラブボードの甘いダークなものに比べ、メイプル指板寄りで中間くらいのものとなる傾向と言われている。



フェンダー系のネックといわれるものはすべてやった。クラシック、ギブソン、コピーものは大概手掛けた。 ESPからきたのは、クレイマーの社長がよく来たね。あとフェンダーにいた技術者で、トム・アンダーソンが20歳くらいの時によく来た。 あの人は楽器ショウを回る度にうちへ遊びに来た。ウチがネックを2000本こなしていると聞いたらびっくりしてた。ウチは直接トムの仕事はしていない。 彼はウチの技術を見たかったみたいで、棚に乗せてあった刃物や治具を熱心に見ていたよ。彼は家族を愛し、よく家族の話をしていた。3人くらいで来ていたな。

(調べてみると、トム・アンダーソンは元々アメリカのシェクターの社員で、シャクターは1982年に経営難に陥っていた。投資家から安い製造元を探すために日本に派遣されていたようだが、それは本意ではなく、社長から独立を勧められ1984年に独立。)





ある日、楽器ショウで聞き及んだのか、ジャクソンの社長が原山ギターを訪ねてきたこともあった。そこにフジゲン上條氏、啓陽などが彼に会うために原山ギターを訪ねてきた。ジャクソンの目的はおそらく日本の生産拠点を探すためだったが、それを断った。その後に中信楽器に行ったようだ。


山辺にあった原山ギターにて。

奥にはJaramarのネックが並んでいる。      工場移転後。



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60歳近くになり、徐々に体調に変化が表れてきた。自分でサンディングしたものがまだヤスリの跡が残っていると社員から指摘され、目が見えなくなってきていることを実感し、実践から退くことを決意する。

そして工場を穂高に移してからも、事業を大きく広げることはせず、1990年、会社は責任者の中村氏にまかせ社名を(有)ウッドカンパニーに改名。事業を譲るにあたってはフジゲンの中田部長には大変お世話になったとのこと。安心して趣味の山岳写真、旅行などにでかけることができた。

中村氏も定年を過ぎ、後継ぎもいなかったことから201212月、惜しまれつつ47年に及んだギター製作に幕を下ろした。

廃業したことは残念だが、今考えると一番いい時期にこの仕事に関わってきたと思っている。長年同じ物を作ってこられたことは奇跡に近いと思っています。

今年で84歳になる原山氏、誰もが一目置いたその腕一つで激動の楽器業界を生き抜いた、まさに伝説の職人と呼ぶにふさわしい方でした。 会社はなくなりましたがその技術と精神は今でも後継され、信州のギターに息づいている。 まさに松本GUITARSの伝説の人なのです。



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恥ずかしながら館長のギターを最後に見ていただいた。


                                        (          (2014. 4.13)

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(ハラマー 復活プロジェクト2015)
世界に1本。残されたデッドストックパーツを使ってTAD館長が組上げた2015Jaramarはこちら。
http://www.geocities.jp/guitarofworld/HARAYAMAguitar.html



2017.11.19追記

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