ガラクタギター博物館
THE JUNK GUITAR MUSEUM MATSUMOTO
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奈良史樹氏 1970年代 楽器業界での人生を語る

まだ寒さの残る20124月 1970年代のグレコを語る上で外せない人物“奈良史樹”氏にご自宅でインタビューする機会を得ました。 奈良氏といえば、Greco MRの企画開発をした人物としてつとに有名。7月にリリースされたMRnをプロデュースされたのは記憶に新しいところですが、神田商会でご活躍されていた頃からすでに3040年の時が経過しました。その在籍期間中に手掛けた数多くの功績やエピソードはあまり語られていません。松本のギター産業にもに大きく関わられたご本人、そして関係のあった人々、それらにまつわるエピソードを残しておきたい・・・そんな思いから病気療養中にもかかわらず、20代にして楽器業界を全力で駆け抜けた1970年代の大変貴重なお話を聞かせていただきました。 奈良氏のご希望もあり、これはその時の様子を記録したものです。インタビュー形式とすることでお人柄がよく分かる内容となっています。

(対談及びインタビュー:横内照治氏、TAD館長とはJV誌の先輩であり有数のグレコ研究家S氏、TAD館長)

尚、このインタビューはお会いした2012年4月のものです。奈良氏は2015. 1/31に御逝去されました。
氏の遺言どおり、お亡くなりになってからの公開としました。
生前は大変お世話になりました。心より御冥福をお祈りいたします。

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奈良史樹(Nara Fumiki)1951-2015

1971 YAMAHA / GYM         Design, Planner, and other
1972-1979 KANDA SHOKAI
     Design, Planner, and other
1982 Two-tone graphics Ltd.     Fender Japan  Design and Public information
1985 Two-tone club Co., Ltd..    Ikebe, Maxon, TUNE, Sadowsky, SWR, John Suhr  and more                             Design and Public information.
2012 Greco MRn-140R Produce




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1971年〜)

奈良氏の恩師、椎野氏の存在がヤマハ時代から神田商会まで、すべての始まりだった。

椎野さんの話をすると凄いよ。椎野さんが一番凄い。あと僕らなんか・・(笑)
椎野さん経由で小嶋さんから広告の話が来て、僕なんか椎野さんの子分みたいなもんだからヘイヘイって。

その頃、ヤマハで全国のショップで埋もれているミュージシャンをあつめて運動して、そういうのやりましょうって計画を練ってたんです。それでたまたま僕が森君(森泰人氏)っていう友人のジャズ・ベーシストの彼から、椎野さんという人がヤマハ銀座店にいるから一緒に行かないか?と言われたんで行ったの。 椎野さんにバンド活動をやってることや、デザインをやってることなどの経歴を話したら、ヤマハの嘱託で企画をやってみないか?と誘われれた。僕は人が2つくらい言えば8個くらいにふくらませることができるタイプだった、また体が大きいから印象に残るんです。そんなやつが何か言えば目立つ。人と話すときはいろいろ図にしたり絵にしちゃうんですよね。

その当時も何をしたかというと、ヤマハのショーウインドウがあるんですよ。ヤマハではいろんなことをやらせてもらったけど、印象に残っているのは、銀座通りに面したショーウインドウがあり、非常につまらないものだったんですよ。そこを若者の部屋にしてみるというアイデアを出した。 また店の正面に“ビバルディの四季”の宣伝があったんですが、それをミュージックツリーにして音楽の相関図にしてみたらどうか?と。それがバカ当たりしたんですよ。それを皆見に来て。そのイラストは森君の友人で慶応の山田敦朗くんが描いた。http://www.gramco.co.jp/

当時を語る奈良氏。

それ以外に色んな企画をしてきて、アマチュア・ミュージシャンを集めてポプコンに送りだすこともした。それには自分もやらなければならない。仲間で作った2枚組のLPも作った(そこからも数々の有名人輩出。 もとまろサルビアの花もヒット)。 それをヤマハの川上源一社長(当時)の耳に入り、全国のヤマハショップで同じような活動が推進されて行く発端になった。




1972年〜)

神田商会との接点(フジゲン70年代の軌跡より抜粋)

奈良氏とGrecoとの出会いは、ヤマハ銀座店に椎野氏という凄腕がいて、その下で彼の手足になって活動しているデカイ男(奈良氏)がいる・・・という鈴木政行(小嶋氏の実弟で当時神田商会営業部長・銀座エリア担当)の話に興味を持った当時の鈴木部長(後の小嶋社長)から、グレコの広告を頼まれたのがきっかけだった。

ギャラをいくら請求してよいか分からなかった奈良氏は、冗談半分で当時の高卒初任給の額の4万円を請求したら即決で成立。 そのままアルバイトでギターの広告を製作した。

何回かグレコの広告をこなした後、(高すぎるギャラに)鈴木部長から正社員になるよう説得されるが、サラリーマンに成る気がなかった奈良氏は、金を貯めてアメリカに行くつもり・・・と夢物語を語って逃れる。しかし、鈴木部長は奈良氏の才能が優れているのを見抜いたのだろう。それすらもなんとかすると約束され(普通に考えて一部長がそこまでの権限を持っているというのも凄いが)、椎野氏に続くように19727月、神田商会に嘱託で入社。荒井貿易のルートでシカゴの楽器問屋 デビッド・ウェクスラー社(David Wexler Co.)に行けることになった。奈良氏は、急遽、富士弦楽器で1か月のギターの修理の研修を受ける。 David Wexler Co.で約1年間修理の仕事をしながらアメリカの音楽・楽器事情をつぶさに見聞きして1973年帰国。“お礼奉公”のつもりで3年は勤めようと思ったそうだが、ずるずると7年在籍し、神田商会取扱いブランドの殆どの広告制作、さまざまなイベントの発案、エンドース、小売店バックアップ(Rock House Ikebeに代表される)、輸入業務、製品開発、Player Magazineの創刊など、神田商会社員という枠を越え、多岐にわたり音楽・楽器事業と関わることになる。




19727月〜)

(奈良)フジゲン研修行ったのは、アメリカ行く前。 ひと月くらいだよ。

(横内)「その時、親父が初めて駅に迎えに行ってた。鯛萬かなにかのレストランに行ったんですよ。一番初めて松本に来た時。俺まだ社員じゃなくて制服で」

あそう?ごめん記憶にない。お父さん迎えに来てくれたの・・・ 申し訳ない 生意気だったなあ・・

「鯛萬は松本で一番のレストランですよ」 

僕、この焼き肉うまいとかいったのかなあ(笑)

デビッド・ウェクスラー社ってのはシカゴにある問屋さんなんですよ。
僕そこに行ったんですよ。ホールセーラー。問屋さん。荒井貿易が輸出してた先。
フジゲンが輸出してたのはコンラッドっていうブランドのConradの。OEM エレキもアコースティックもあったし。
(後日調べで、コンラッドはマツモクが製造していたことが分かりました)

シカゴに行くとき理由がないとまずいじゃない?そしたらギター直せるリペアマンが欲しいって。
それで初めてギターってどういう風に出来ているか知ったの。それまで知らなかった。興味なかった。
本社の二階に泊まって・・



(写真)Greg Stinsonという人物で、David Wexler Co.で一緒に働いていた。いわゆる同僚。アマチュア・ミュージシャンだった。一緒に写っているのは当時の彼女。 後年、プロになりShaowfaxというグループで来日し、再会した。Windamhilレコード。(Greg Stinson氏はグレコ製ダブルネック、彼女が初期グレコ&CANDAカタログを見る)

 シカゴのポスト横で。

*渡米先を決める時、ニューヨークかロス、南部の商社のどれにするか提案があり、荒井貿易の山口氏に、奈良氏は迷わず「シカゴありませんか?」と尋ねたそう。 理由は“シカゴブルース”という響きだけ。それだけでシカゴ行きを即決してしまった。

Wexlerは通販のカタログがあって、奈良氏は毎日のようにそれを眺めていたそう。それは楽しい図鑑で赤ちゃんの玩具まで扱っていた。初代社長がデビッド氏、二代目がバーナードで、非常に丁寧な人柄で、当時は奈良氏の面倒をよくみてくれたとのこと。




(高山さんの松本弁について)

そうそうそう。 だね〜。そうだじーって言って そうじゃんねー って(笑)*モノマネ

*館長も会いましたが、いい意味で本当に松本弁バリバリの方です。




(Y版(黄色版)かぶりのカタログについて)

正直言ってコレ凄いよ。黄色かぶりのイラストのカタログ。Y版がものすごいカブってる。これが最初にやったカタログ。それまで僕やってない。それまでは椎野さん。


カタログは、山下っていう高校の同級生とやったわけ。(山下信夫氏)山下って言われても知らないでしょ?大変な人なんだよ。ブリキのおもちゃの製作者で、彼がイラスト描いたの。 こういうカタログは当時なかったの。あるわけないじゃん。(型番外しも)そうそう、楽器業界の常識みたいなのがあるわけじゃん。変えてやろうという気じゃないんですよ、おかしいじゃん?っていうかみっともないじゃん、ってことがいっぱいあった。



(ギター言語を勝手に作ったことについて)

僕はね、ギターに詳しいとかそういうんじゃないんだよ。そうじゃなくて、これっておかしいんじゃねえの?って。こういう言い方って。

一番驚いたのはフジゲン行ったときに、高山さんに僕がフォークギターの話をしたら 「ああ丸穴ねー」 丸穴?? あとフォークギターっていう呼び名はないでしょって。 だから最初にアコースティックギターとか、あとハンバッキングって最初に使ったの。 ギタープレイヤー読んでたらでてきた。 まだいっぱいありますよ。

マイクって・・・マイクっていったらマイク真木だよ(笑)。向こうではピックアップって。

他に作った用語は・・カタログ作るたび変えたからねえ・・・

エスカッションをマウントリングってかえたのがそうだね。なんでエスカッションて言うの?

*その他、スピードノブとか、現在も普通に使われているパーツやギター用語をたくさん命名されています。


Grecoのアコースティックギター303のカタログを見て・・・赤い表紙のカタログが目に入り

これ!弾いてるの僕じゃん。これ僕だよ。この服で思い出した!

 自身がギターを弾く表紙のカタログ。型番定価廃止が営業に不評を買う。


CANDAのロゴマークって誰考えたか知ってる?あれ近藤専務だよ。

あれキャンダってなって、ロゴマークのデザイン・・「奈良君 クナイスルみたいなやつどうかね?って」
クナイスルわかる?スキーの。 はいわかりました。 こんな感じかなって(やった)


 ヘッド・ロゴは神田商会近藤専務デザインだったキャンダ


(横)「最初近藤専務がヘフナーのベース持ってきてねぇ」

だってねえ!

「あのころは小嶋さんとの力関係は近藤さんの方がはるかに上で」

だねえ。

「後に逆転してきて」

なっちゃったんだねえ、だからそれ読んだときにそうだったんだって思った。すごかったんだろうね、神田の中もね

「最終的に鈴木営業部長がフジゲンのルートを独占しちゃって自分の子飼いの斎藤さんとか奈良さんとかしか行かせないんだよね。」

ああ!そうかそうか。独占しちゃうんだよね。なるほどねえ。

「で力をぐ〜っとアレしちゃうでしょ?」

なるほどねえ そうだったんだ。・・・僕なんかアシだったから(笑)

「で、最後に・・どんでん返し?(笑)テーブルひっくり返しがある(笑)」

ああ・・あれはねえ・・去年ダイナ行ったとき、中村さんはダイナ行ってて、彼はよく見てて・・覚えてんだ。あんときは凄かったですねえって言った。工場長だってね。 

「神田商会にフジゲンから出向してきて、フジゲンが景気悪くて、人件費を杉本君とか中村君とか神田商会にもってもらったわけだよね。」

あそう!?

「それで赤羽の社員寮に入れられて半年くらいいたんだよ。」




(有名な成毛滋氏のGrecoソノシートについて)

「ソノシートって奈良さん?」

え?椎野さんの発案じゃないかな?

「奈良さんって言われてますけど・・」

違うだろ??どんな内容だった?女の人じゃなかった? 椎野さんに聞けばわかるって、グレコと成毛滋の前半、導入部分は全部分かると思うよ。椎野さんが神田商会に引き合わせたんだから。椎野さんいなかったら僕はいなかった。

(音源1を聴く)あ〜、これ成毛滋だあ・・成毛さんの音。マイナー・ペンタトニック。

(音源2を聴く)「ニューロックの・・・・」あ〜、・・これ僕だ・・・成毛さんの部屋。部屋だった気がする。で、ベッドがあって、それで・・そうそう・・事前に聞くことをリハーサルして・・・次に成毛さんの言いたいことがあって。それを打ち合わせした。(ウーマントーンとか)そう、言いたいこと。

「奈良さん神田商会入ったばっかり?」

うん〜と・・そうだよね。だと思う。フジゲンの研修行くか行かないかって頃だと思う。はい。恥ずかしくてすぐ消しちゃったね(笑)
*(自分の声のMCがずっと流れていたので恥ずかしくて消したのです)




(成毛モデルに関して)

えっとねえ・・・良くネットでプレイヤー・マガジンの人が、奈良さんそうなんですか?ネットに出てますよって言われて。こんなこと、あんなこと書かれてますって・・僕調べてないからわかんないけど、成毛モデルって言ってたのは小嶋さんです。え〜っと・・社内的に言ってただけ。広告で成毛モデルって言った記憶がない。あるのかな?ないでしょ。社内的にアコギを“丸穴”って言ってるようなもんで(笑)、コンタードの入っているやつでしょ?コンタードが入って、ブロックポジションのEGを言ってただけ。だって分かんないから。なんて呼ぶか・・・僕が記憶があるのはねえ、トップ単板のギターを作れる技術がフジゲンにあって、その広告を作った記憶がある。それが成毛モデルというレスポールだったかどうか記憶はないんだけど、それはブロックポジションのコンタードボディ?ご本人が言ってた話じゃないんじゃない?社内的に言ってただけで。コンタードの入ってたのは・・大体コンタードなんて言葉もなかったけど。

成毛さんとしては、ちゃんとしてほしかったんでしょうね。お金とかじゃなくて、きちんと断りいれるとかね。グレコへの貢献度は計り知れませんからね。




(成毛氏とのこと)

成毛さんには僕とPlayer Magazineの初代編集長の河嶋さんはずっと誤解されて来ましたね。

実際、神田を辞める時に挨拶に行ったら、彼、それがいちばんいいよと。ほっとして ましたから。
すべては奈良と河嶋が神田商会、Playerの中枢を握っているという思い込みの反動だと思う。

周りでけしかけた人もいるんですがね。それが残念で仕方ない。
ロンドンで生活されている時に訪ねて行った記憶があります。日本に帰ってコンサートをしたいから、

神田商会に後援してほしいとたのまれ、小嶋さんに掛け合いましたがつれなかったです。実現しなかった。それも尾を引いてるんでしょう。奈良が握りつぶしたと。広告やギター製作ならわかるけど、お金も人材も使って日本青年館クラスのハコでやるコンサートですよ、そんな力、決定権僕にはありませんよ。
成毛さんは希有の音楽家です。優れたギタリストであり、ユーザーへのインパクトは筆舌につくせません。

成毛さんには、日本の音楽・楽器シーンを変えたい、ギター少年の意識を変えたい、という信念が強くありました。それだけに、残念です。今でもリスペクトしてます。

ちゃんとエンドースして 「成毛モデル」を出せばよかったんですよ。あれだけの貢献をしてくれた方ですからね。コンタードのLes Paul、いいじゃありませんか。




(沢田さんと神田商会のリペアルームについて)

これがねえ・・そうなんだけど。この沢田さんって人はねえ、椎野さんと沢田さんで、成毛滋さんとかやってたんだけど。この人がアフターサービスってのを神田商会に作ったんだよ。

「斎藤さん入ってないのはどういうわけ?」

写ってないだけかも・・・。あのね、神田商会が12階借りるようになって、何をやったかっていうと、ひとつは奈良を中心とした企画室、そこで広告関係とか貿易関係。もうひとつはアフターサービスやろうと。ギター直したりアンプ直したりね。そういうのをしながらミュージシャンとコネクションを持とうという計画があってアフターサービス部門を作った。

「12階全部借りきっちゃって」

で、沢田さんは当時20代後半だよね、きっと。

それから小幡亨さん、彼が僕が辞めた後の企画室のトップになった。面白い人だったね。ドラムの人。で鈴木の潤さんといってエーストーン辞めてきた人。それで、これはNancyの岸田さんの若い頃。イシバシ楽器の彼、研修に来てたんだけど、彼に聞いたら74年だってこの写真。

「ああ、イシバシの副店長やってた?」

そうそう。

 神田商会12階の仲間。

「で、レオミュージックの長沢さんって」

レオの長さんってのは、神田商会から独立してPA屋を始めたの。ミュージシャン向けの。

「グレコの立ち上げの時に長沢さんが・・」

OK!OK!だから沢チャンと長さんと椎野さん。だから成毛さんを引っ張ってきて小嶋さん(当時は鈴木部長)に紹介したのは長さん。だからグレコをガーっとエレキ化させたのは沢チャンと長さんと椎野さんだね。

「椎野さんは神田商会の社員だったことがあるの?」

あるのよ。僕がシカゴから帰ってきたらもう違うどっか・・モリダイラかどっかに。

「フジゲンにいたのはその前ってこと?」

そうそう。

「それでESP立ち上げて」

そうそう、DJ機器のベスタックスを世に送り出して。先見性が凄い。アイデアマンだし。




(レッドツェッペリンの話)

これは一番好きな話なんだけど、誰も触れてほしくない話。僕的には凄く好き(笑)

どういうことかというと、僕がシカゴに行く前に、9月に行ったんだけど、その前に神田商会に嘱託に入った。

社員にならないか?と言われたが自分はアメリカに行きたいって夢物語のようなことを言ったが、小嶋さんがお膳立てしてくれた。 その時もUDOと付き合いがあって、ツェッペリンが日本に来るらしい。で広告出すんだよ。で広告作れって言われた。で、広告作る際に「ジミーペイジに絶対グレコ使わせますから」って言う。「ホント?」で、僕はジミーペイジが今夜グレコを使うという広告を作った。そしたら使わなかったの。

その後は僕はシカゴに行ったあとなので知らない。 そしたら大変に大モメしていると小嶋さんから手紙がきた。それは金で解決した。100万円払ったと。

日本はモラルなんかなかった。エンドースのモラルなんか。今の中国みたいなもんだから。でも彼らにとっては契約社会だから「僕はUDOとこんな契約していないぞ」と。UDOも神田も焦った。訴えると。

当時の100万円(1ドル360円)だからかなりの金額だよね。 それでシュッ(チャラになった)。

(神田に保管されている成毛氏がジミーに手渡している写真を見て)

あれは大阪で成毛さんが渡したの?ああそう。 その写真が100万円ということだね(笑)




「海賊版レコードで ノーユースグレコというのがありますね」後から送った写真あり

いいな。いいね。そういう話大好き。

 

だから何があったか全然しらないわけ。行っちゃったあとだから。ただ僕は使うっていうから広告作った。
きっと弾くって・・・。

それとね、あと決定的みんなと違うことがあって、ミュージシャンだからって全然ビビってない。たぶん違う人だったらビビるでしょ?例えばNYPushpin Studioのデザイナーと会うとか、その人と契約でもめたとかならビビる。K2の長友さんと会った時は頭が真っ白になった。そういうのはある。でもミュージシャン?別にって(笑) 知らなかったんだよ。 で奈良はナメてる、奈良は生意気って思われちゃったけど違うんだよ。知らなかっただけなんだ。なんで、皆あんなワーワーキャーキャーすんだよって。 わかるけど僕の中じゃ別に(って思ってた)。

フェイセズはねえ、僕の中ではフェイセズは印象いいんだよね。ロニー・ウッドなんか紳士だし。ロニーがギターを作ってくれっていうんで打ち合わせしたんですね。ホテルで打ち合わせしたんだけど。RW、あれちょっといい加減なんだけどね。これなんでこんな形で出たの?メッセンジャーなんか沢ちゃんがやったんだもん。沢田さん(神田商会アフターサービス部門のチーフ)。

 右2本が上述のギター。

Roto Sound。これすごいね 知ってるよね? 輸入したんだよ。で、なんでかって言うとロニー・ウッドに合いにイギリス行ったの。その時に山内テツが日本の公演の時にロトサウンドの弦使ってたわけ。僕、「こんな弦があるんだ」って言ったら、山内が「この弦すげーいいんだよって、それじゃあこことエクスクルーシブとろうかっていってイギリス行ったときに、住所聞いてベックリーヒースってとこで、電話してロトサウンド訪ねていった。

日本から小僧がきて「契約」ってホントかよこいつって思うじゃん?で契約しろって「どんくらい?」ってとんでもない数量いうわけじゃん。こっちが。眉ツバじゃねーのって(笑) 本気にされなかった。でも山内テツやフェイセズのちゃんとした紹介状もあるからウソじゃねーんだろうなあって。それでホントにLC開いたからびっくりしちゃった。そんなのまだいっぱいあるよ。キリがないくらい・・。


Greco1974年 ディーラー向けマニュアル。 ロトサウンドの弦にも注目。




1974年プレイヤー設立について)

面白い話があって、発端は、シカゴから帰ってきて、だいたいアメリカなどに行って仕事をしてくると天狗になって帰ってくるわけ。しょうがないんだよ。で若造の僕は偉そうに、鈴木部長に「オレ、なにやったらいいですか?」と言うと、「バカ野郎。自分で考えろ!」といわれたんだけど、「自分で考えろ? 何かやっていいんだ。と」「じゃあ雑誌作りたいです」「雑誌でどんなことやるんだよ」「雑誌やれば楽器の話ができるじゃないですか、今はミュージックライフ誌しかないし、楽器の話も出ない。ピックアップの話をしようと思ってもできないじゃないですか。ウチは取り扱い商品はいっぱいあるし宣伝もできるしいいじゃないですか。」 って言った。当時アメリカのギタープレイヤー、クリームという雑誌があったんですが、そんな風なのをはじめようと思った。

歴史で出てこない話、河島彰さんという編集長。この人がいなかったらPlayerはなかった。そのくらい僕は評価している人。 また二代目の編集長の田中実さんも素晴らしい編集者です。河嶋さんがばらまいた種をじっくり育てた人です。

それでも、どんどん海外も日本もミュージシャンが来る一番活気があった時代だった。19741977くらいだね。VAN HALEN、Queen、KISS? もちろん会っています。




Player Magazineについて)

シカゴにいる時、同僚のグレッグ・スティンソン(ソファーでWネックを弾いてる写真の主)のアパートに遊びに行ったらGuitar Player誌があってね、グレッグがこれは読んどいたほうがいいぞって。読めとすすめられたんだ。あの頃はベトナム戦争の末期で、徴兵制度がなくなるっていうんで、大騒ぎだった。サブカルチャー雑誌が街にあふれていてね。見るもの聞くものすべてが新鮮だった。
で、ほとんどの楽器の情報はここから いただき、リペアに関してはダウンタウンの楽器屋に入り浸って学んだ。
帰国して最初の仕事が「音楽雑誌ではなく、楽器雑誌を作る」でした。人と時代、運に恵まれてました。スタートメンバーは編集長に河嶋さんでこの方 はデザイン畑出身でしたからハナシが合いました。レイアウトは綱島さんというデザイン学校出たての女性を入れ、社長には業界誌を辞められてフリー でいた島田 さん。この人は面倒見のいい、素晴らしい人。業界の重鎮です。アイデアマンでしたね。カメラマンに山中さん、発行人の山中さんが女性 で、その弟さん。それと、営業で入られて、河嶋さんが抜けたあとに2代目の編集長になられた田中さん。この人はPlayer Magazine中興の祖です。誌面の拡充だけでなく、別冊
を幅広く展開したり、河嶋さんは音楽業界向いてる感じでしたが、田中さんはバランス型という か、楽器業界も大切にした。ギター、すごく上手いですよ。コレクションもすごいしね。

奈良さんが用意した写真あり(旅行の集合写真)
Player
には神田を辞めたあとも役員として残ってましたが、辞めたんで株を田中さんに譲ろうとしたら、小嶋さんから神田商会の定款だかなんだ かに、退職したら株は返すと・・・で、で小嶋さんに買い取ってもらって、抜けました。ほんとはそんな規約ないんですが、小嶋さんともめたくなかったし。Playerには頑張ってほしいですね。ネット時代で大変ですけど
。 




1975年〜)

1975年製MR1000を抱えながら あれ?これなんでシリアルNo.ないんだ? シリアルNo.考えたの僕と高山さんだからね。

「75年から・・」

それね、高山さんの話してる時ね。彼とやってるはずだから。機械があったのよ。(刻印する機械)




(MRと2011ショウモデルMRについて)

MRが・・去年の何月だったか覚えてないんだけど、横ちゃんとか桜井さんとか話が会あったときに、僕MR探してるんだけどなかなかネットに出てこないねぇ・・って言ってたの。 で、じゃあ作ってやるよって
「桜井さんが?」
うん。作ってやるよって。 じゃあどうせ作ってくれるならボツになったやつ作ってくんねえ?って言ったの。ボツになったのなんてあるの?っていうからあるあるって。覚えてんの?いや、全部記憶の中にあるって。なんでボツになったの?っていうからそれは小嶋さんの一言。 今だから言えるけど。当時なんか言えない。当時って言うか前、取材受けたときとか・・・それからやっぱし・・まだ自分が現役だったから。5年前10年前なんて現役バリバリだから、やっぱしこう・・なんかこう自分の中で言っちゃまずいんじゃない?ってのがあって。でも僕なんかもうカウントダウンはいっちゃったから(笑)ホントホント。カウントダウンはいっちゃったから知ってることは全部言っとこうと思う。

胃を3年前・・いや2年半前かな?取って・・仕事中に倒れて救急車で運ばれて・・で胃ガンですよと。で取って。で今年の1月に転移して・・それで何もしないと半年って言われた。処置すれば1年半くらいいくんじゃないかって。 皆か処置してくれって言うから処置して。人それぞれだもん。僕のは若い頃悪さしてるから(笑)コブラツイストかけてたから(笑)わかんないけど、たぶん皆とは様子が違うと思うんだよなあ・・

「高山さんは最近会った?」

うん会った会った。上條さんのなんかじゃないかな?

「御葬式の時ね」

そうそう。

「7月呼びますからね。これだけで」(松本オフ会のこと)

あ!あの人呼ばなきゃ。あの人ノート厚いの!あのノートもらっちゃえばいいのに。中田さんも、絶対3人呼ばなきゃダメ。牛丸さんなんか絶対。全部知ってる。

元気なウチは皆ホントのこと言わないからダメ。片足突っ込んで初めて言うんだ。今日はホントのこと全部言っちゃう。




(ボツになったMRのヘッドデザインについて)

で、なんでMRがボツになったのかというと、あのデザインではなくて・・(書きながら)この形はかわんないんだよ。で、ここに花が入ってんだよ。それからThe Grecoって入ってる。それからこの時からミック・ラルフスなのよ。


MRのボツになった最初のデザインを説明する奈良氏。このデザインをアレンジして2011プロトタイプに入れられた。k

「ミック・ラルフスのために作ったということで?」

そう。ワンオフで行きたいって。ところがね、当時技術的にまだ無理だった。転写を一個だけ作るなんてことは出来なかったし、貝でThe Grecoって入れることができなかった。 で、今回僕が言ったら、ああ、全然ワケないって。じゃあ、僕このユリの花みたいなの嫌だから、ここを人が飛び込んでいるカタチに変えちゃったの。

当時は、こんなの出せるわけねーじゃねえか。ここにGrecoって入ってなきゃだめだ。って。(小嶋社長に言われた)

「社長さんが?」

そうそう。だからこれがボツになった。本来はこんなようなイメージが僕にはあった。で、あの形はミック・ラルフスと相談してやったのかというとそうではなくて、自分の中に・・・今無いんだけどさ・・ノートがあって、バンバン描いてた。いろんなもの。それは広告のラフとか、デザインもそうだし自分が気になった言葉とか・・。つい最近だと、こんなようなノートの中にビートルズの写真があって、ポールが弾いてるんです。あれがずっとあったんですよ。

 MRのアイデアの元になった白黒のビートルズ写真

もう一個はKAYとかハーモニーだとかアメリカのシアーズが扱っているようなやつ。ギターのデザインだとかは。ちょうどシカゴ行ってる時。こんなに暑いカタログがあったから毎日のように見てた。皆さんと一緒で楽器少年だった。それがあった。

それで、ミック・ラルフスに話をしながら描いてるときにそれでいいって。24フレットでいいか?「OK」レスポールの音でいいか?「レスポールの音で無ければいやだ」

で、僕の目論見が間違ってたのは、非常にバランスが悪い。どうしようもなく悪い。出来あがって、ダメだこりゃ って思った。思ったけど、6月に彼に渡すことになってて・・今から直しきかない。これでやるっきゃねーなって。あもうこれ絶対商品化なんて無理だなって。こんなんなっちゃって(ヘッド落ち)でもねえ・・彼は全然、一言も言わなかったよねえ。シャキシャキ弾いてたし。それは75年です。彼が日本に来たのは75年の3月だと思うけど。それがさっきの写真。バッド・カンパニーの日本公演ね。

それシアトル公演に持ってった。今じゃ考えられない。考えられないことばっかりだった。

「じゃあそこに行くまでのアポイントはどうやって?」

え〜とですね、ミック・ラルフスが来る前から、いろんなミュージシャンが必ず神田商会に来る雰囲気で、どういうことかって言うと、呼び屋は当時UDOだったんですけど、UDOと神田商会って広告の出し入れやってたんですよ。だからここにアーティストが来ると・ほら、あるじゃないですか、接待の。そういうツアーの一環としてここに来るってのがあったわけ。それでここでギター作ってもらったり、ギターをお土産にもらったり、そんなようなことしてた。UDOとしては、ウチこんなとこ知ってんだよって。ウチとしては色んなミュージシャンがくるから、エンドース的なことができんじゃないの?みたいなことがあった。これが色んな問題に発展していくんですよ。ん〜だからなんでこうなったのかな?って考えるとこれか、これかって(笑)


1975年 BAD COMPANYのミック・ラルフス。シアトル公演のリハーサル風景。


BAD COMPANYが3月初来日した時。ミック・ラルフスと握手


MUSICLIFE1976年7月号 MR MISTER1000 ポール・ロジャース
MUSICLIFE1975年11月号 MRの名称募集広告。 MRはミック本人の実機。



MUSICLIFE1975年9月号記事 ミック氏がアメリカのライブでMRを使用中!


1977年MRの広告。 弾いているのは奈良氏。 







(グレコ・オリジナル・ブリッジBR2020について)

「当時、バダスは神田商会が独占販売権を持っていたようですが、なぜBR2020を使ったのですか?」

MRはバダスじゃなかったね。理由は思い出せない。BR2020はだれが決めた品番かな?なんとなく、僕っぽい()
このパーツ使いたかったんだな、きっと。このパーツ他のモデルにも使っているの?
バダスの弱点を改良したことは間違いない。高山さんに訊くしかないね。開発経緯は。
バダスを輸入したはいいが、イマイチだった・・・なのかも。ベースブリッジのほうは評判が良かったという記憶があります。

ブリッジは、明らかに、手元にあの3点アジャストの“バダスもどきのBR2020”があったんだと思う。あるいは、すでにその存在を富士弦経由で知っていた。
その時点(1975年春)で、いちばん旬なパーツだったのでしょう。

*高山氏に確認したところ、BR2020は、バダスの欠点である前傾姿勢を改良するために、中央P.U.側にイモネジを配置したとのこと。当時、富士弦楽器で考案し信越鋲螺で製造させたものです。との回答を得た。当時は、その類の金属部品は信越鋲螺で作り、金型は富士弦楽器で持っていたとのことだ。


「森園が使っていたMRはブランコテールピースなんですが、本人からリクエストが?」

ごめんね記憶ない。それはないと思うよ。あのね、たぶんだよ。僕、自分でやっておいて、あ〜、みっともねえなってずっと自分で思ってたの。僕はあれが気になって気になってしょうがなかった。僕も最初いいと思ったのよ・・・でもこうなるしねえ(ヘッド落ち)・・・。で、そんなんでずっと溜まってたわけ。それと同時にねぇ。イケベの35周年史にはもう言っちゃったから書かれているけど、僕の同級生がどんどんアートディレクターになっていくわけ。高校のデザインの学校で優秀なヤツばっかりでさあ。どこどこの広告やったパイオニアやった資生堂やった、ってくるわけ。同窓会なんかで会うと僕なんか肩身狭いわけ。僕なにやってんだ・・こんなのやってんのかよって思っちゃうわけさ。

そう。すごく冷めてた。

「好きじゃないのに番組のMCやっちゃうって」

そう。あれも辞めるきっかけだよね。小嶋さんに僕は君のなんなんだい?ってのがあるわけ。ま、その頃はまだ若造だからさ・・いや、今は本当に感謝はしているけども。当時はね・・・。便利屋じゃねえのって。

「なんでも言えばできちゃうからですよ」

まあね・・器用だからね。背がでかいし目立つし(笑)




(コンポーネント・ギター模索) 

その前にね ディマジオやったり色々やったのよ。それからバダスが入ってきたでしょ?そういうんで、アメリカでは漠然とコンポ−ネント・ギターっていう流れがあった。

神田の中でもコンポーネント・ギターの・・まず小嶋さんのとこいくじゃん。他に振ったってしょうがないから。で彼、コンポーネント・ギターって意味わかんなかった・・そりゃ、オーダーメイドだろ。で・・「沢田さんのところで受けろ」と。 ダメ。却下。

あれやってたら面白かったよね。 だから椎野さんすごいよな〜。わかってたから。
*そしてESPに先を越されてしまう




(ピックアップに名前がなかった件)

ピックアップ。マクソン U1000 あれは理由は簡単で、値段の違いをどこで出すか。100020003000・・・最初は1000だったんだけど 常識的に1000より2000の方が良くないとまずいじゃん? でも同じなんだよ〜。

「じゃあ何が違ったんですか?」 

知らね(笑) ちょっとデザインとか違うかもしんない。須山さんに聞いてみれば?ワインディング数とか違うんじゃないの?たぶん。
(*後日、牛丸氏に違いをお聞きしました。マグネットとコイルのターン数が違います)

おばちゃんが野沢菜摘みながら巻いてたんだよ。 よくそういう風に言ってたのよ。(愛情込めて)

「誰が作ってるんですか?」「ルシア−は誰なの?」「おばちゃん」だって(笑)  ギターもクロマティック弾くの上手いんだ!早いよね、検品するの。オルタネイトじゃないんだよ。全部ダウンで早い早い。

松本は毎月、年中行ってた。 彼女おもしろかったねえ。山田のおばちゃん。名物の。




1977年〜

(リック・ニールセンにギターをデザインしてあげよう)

1977年にデビューした、アメリカのロックバンド“Cheap Trick”のリック・ニールセンのために、Player Magazineと共同企画した“リック・ニールセンにギターをデザインしてあげよう”で第1位を獲得しリック・ニールセン本人とデザインした本人にあげたギターです。

Cheap Trickは、まず日本での人気が高まって、19784月に日本武道館で初公演を行う。そのライブ・アルバムの本国でのヒットにより一気にメジャー・バンドとなった。またリック・ニールセンは大のギターマニアで、当時はグレコを愛用したことでも有名。それも大の仲良しだった奈良氏の力があったからこそです。

デザインした人は(本当に偶然ですが)私の後輩で、大木理人氏です。 大木氏とはデザインで当選し、打ち合わせで会った時に知りました。
これも偶然なんですが、後年神田商会を辞めてデザイン事務所(ツートーンクラブ株式会社)を興したときの私のアシスタント、小林博之氏(現社長)が彼と同級生でした。
小林氏は楽器はやりませんが、私の関係下にいたので楽器業界との縁は深く、Player Magazineの田中元編集長と懇意です。
The Guitar
を始めとする別冊のデザインは彼の手に寄るものです。

また、大木氏は絵がとても上手いので、彼と小林氏、Player Magazineとの3者共同で、Player Magazineのミュージシャンイラストの販売をやってます。

何本作ったかは、高山さんに聞いてください。
(*リック用とデザインした方用の2本と思われます)


リックニールセンモデルをデザインしたのは(偶然だった)奈良氏の後輩で現在アートディレクターの大木理人氏。(フジゲンにてパーツ組み込み前のものを持つ)

1977年 PLAYER別冊THE GUITAR表紙。 デザインはアシスタントだった小林氏。ギターは「リック・ニールセンにギターをデザインしてあげよう」で一般公募の中から選ばれたギター。 


Cheap Trick のリック・ニールセンはベッタリの仲。




(グレコ愛用者カード)

「フジゲンに送ると、きちんと手紙で返事がきたようですが」

そういうのは高山さんだよねえ・・フジゲンは高山さん。神田は僕。高山さんって僕と良く似てて。しゃべるスピード凄く早くて。両方とも胃が半分無いんだよね(笑) 僕、太鼓判押されちゃったんだから駄目だけど。

*後日高山さんにお聞きしましたが、ご本人は違うと仰っていました。




(77年の楽器フェアでグレコの出展物資料が雑誌に載った)

それは科学技術館でやったやつだね。

「その時の本に何が何本とか、型番も出ているんです」

それは高山さんだね。中田さんと高山さんのノート見せてもらいなよ。凄いから!適当に一度喋ったこと全部控えてある。  で、元々ね、フジゲンはIbanezをやってたでしょ?星野楽器にはジェフ・ハッセルバーガーってヤツがいて、こいつがエンドースやってた。で、ボブ・ウエアーもそうだったし、ジョージ・ベンソンもそうだし。 でさあ、神田商会がこんなデザインがいい、こんな音楽が流行ってる、こんなの作ってくれって言ったって、ジェフ・ハッセルバーガー側からきたヤツの方が絶対洗練されてるじゃない?だからフジゲンの中にもそういうのはあったと思う。星野の方が情報が新しいし斬新だし。僕はそれは全然否定しない。絶対そうだと思うから。で、そんな中にIbanezが作った中に、なかなかいいのがあるのよ。うん。それで、当時アレンビックが流行り始めてた頃で、それが発端だよGOは。通しネックは。

で、通しネックを作るってことになって鮮烈に覚えているのは、これは国内最高のモノが作れる!僕の中で一番いい広告が作れるって・・・そういうのがあったね。 だからあの広告はもう誰もノータッチ。ダメ。僕以外ダメ!コピーから何まで全部やった。

「大木のところに3本立て掛けたあれも?」

そう。

「覚えてます?」

もちろん!・・・・このトレモロねえ・・・なんとかならなかったのかなあ(笑)(T.S.ビブラートを見て)




(SE800JBのカタログ表紙をみて)

イケベ最初の“ギターの載っていない広告”大反響だった。

これねえ・・・これ、(現在校正中の本)奈良がどんな広告作ったかっていうのがあるわけ。一番最初これなんですよ。これでイケベがいきなり全国区になった。イラストだけで全然楽器が載ってない。これでオープンしたら凄かった。

「イケベの広告を神田で受けてた?」

それが違うんだよ。話すと長くなる

「4万円のクチ?」

よく知ってるねえ(笑)。だってイケベはオープンしたの75年だから。池部さん有名だったから。当時なんで有名になったかといえば、営業マンで地方へ行くじゃない?するとおはようございますって、山野だったから。で、楽器屋さんに入って、自分のバッグからギタークロス出して1本1本磨くの。よその会社のギターも全部磨く。そういうエピソードを小嶋さんから聞いてたの。で、小嶋さんが池部さんに店出すときはおれに一声かけろよって言ってたの。池部さん、実際に行ったわけ。そしたら小嶋さんがよし!わかった。と。で、僕は隣の部屋だったからすぐ呼ばれて。池部さんお前知ってるだろ?「はい知ってます。」今度店やるからお前全部やれ。面倒見ろと。で僕の中には小売店の広告やってみたいというのがずっとあったわけ。普通の楽器屋さんとは違うスタイルでやってみたいって。普通なら広告出すお金なんかないじゃない。でも神田商会が全部持つっていうわけだから・・・そしたら、全国区のミュージックライフの広告1ページで。当時40万から50万でしょ。今で言ったら100万くらい。

「他の楽器屋からしたら凄く頭に来ることだよ」

大変なことだよねえ・・。 

僕って凄く難しい男だったんですよね。好きな人は好きなんですよ。池部さんとはすっごい気が合う。で、なんとかこの楽器屋さんを短期間で全国区にしたいと。あっという間だったよ。1年だよね? というわけで凄いご法度やったし、そんなんでね、他の地区の担当営業マンからはもの凄いいやな目で見られた。

「JBモデルはイケベが先にやったのですか?」

・・僕はそう思います。


1970年代  イケベの広告(イケベック) 奈良氏作


「それが凄い反響で売れて、なくなってグレコのレギュラーモデルになったと」

そうじゃないですか。

「イケベはショップオリジナルが多かったですね」

そうですね。ある意味グレーな言い方だと・・既存のお茶の水とは違うやり方をね・・やらないとやっていけないじゃない。 KEYなんか凄いオリジナル作ってたよね。

「オレの担当したAK1400とか」

KEY担当だったの?

「そう。最後イシバシも担当だった。イケベさんはずっと安川さんがやってた」

で、このアイデアがどこから来るかっていうとPlayerの河嶋君。河嶋君が「奈良さん、海外からこんな写真が来たんだよ」って。ベックの何これ?凄いね。じゃあウチ作ってあげますからって作って。

「回路の解析はフジゲンでやってた?」

それは牛丸さんに聞けばいいじゃない。牛丸さんから話を聞くってのは凄い大事だと思うよ。裏付けしっかりしてるし。僕なんか面白い話しか出てこない(笑)




(プロジェクトシリーズについて)

プロジェクトシリーズってのはねえ・・なんでやったかというと、僕はプロジェクトシリーズってあんまりいい思い出がない。なぜかっていうと、あれはユーザー目線で作った商品じゃないんですよ。要するに乱売合戦が始まって、小売店さんたちが定価で売れるようにするために考えたギターだったんです。だから寄せ集めなんですよ。ひとつひとつが。こんなのとか、木曾鈴木でカシュー仕上げのとか。で、袋をつけようって言ったのは僕。そうやって付加価値つけましょうって。そう、これこれ、リッケンバッカーのなんかはポールのをそのままを作ろうって。 これは335のストップ・テイルピースが流行りだしたの。あれカールトンだよね?今までだったら単体で出していたヤツをひとまとめにして、しかも定価を崩さないようにして小売店さんに売ってもらうために出したの。そうそう、品薄にしたしね。

そうそう。で、このころ僕はコンポーネント・ギターを要望してたんだよ。すっごい。オリジナルのグレコ以外でいわゆるコンポーネント・ギターっていうの?だったらどうかっていうのはあった。(あとで小売店がやりだしたよね)

まあ、僕らがいた時代にはこういうのは合わなかったんだよ。早かったんじゃないの。こんなコピー作ってどうすんのかな?ってずっと思ってた。コンポーネントだったらコピーでもいいと思った。たとえばカタチはフェンダーのストラトのカタチってのは非常に良くできてるしね。それから向こうで見たヤツで、シェクター以外でもコンポーネントやってるところは何社かあってですね。やっぱり作りやすいんだよね。セットネックじゃないし。エフェクターとも相性いいんじゃなかったっけ?シングルコイルのって。



当時のキッズ達を熱くさせた?カタログ。


1976年プロジェクトシリーズの広告類




(コピーモデルとオリジナルモデルについて)

コピーは嫌なわけですよ。わかる?嫌なんですよ。でもコピーから抜け出せない。で、コピーから抜け出すタイミングがいくつかあったんですけども、やっぱそれは線香花火になっちゃう。だからそんなんで自分の中ではコピーでも充足感がないし、オリジナルのモデルに関しても僕はやったー!っていう充足感はないんだよね・・。


(GOのカタログをみて)このころ辛かったねえ・・・。

「ラインナップを考えたのは奈良さん?」

いやいや・・神田だったけど・・・僕一人でなんか決められないよ。

「小嶋社長はさあ・・オレが後にさあ、中田さんと高山さんと来てコンピューターが当時入り始めた時。何本売れたから何本仕入れて。ってやってたけど、小嶋さんは全部勘だからね」

そうそう!

「全然データ見ない」

そうそう。

「それでも全部さばけちゃった時代だよね。それで社長から任されるようになったころからダブつき始めてて、正確に注文しないと、そんなことやってたらあっという間に・・・(在庫の山)」




(ゴダイゴについて)

あ〜、ゴダイゴ。はいはい。  

あのね。覚えてるのはミッキー吉野が訪ねてきてね。あ、その前から良くは来ていたんですけど・・カップス辞めた後きてね。ミッキー吉野グループとかやてって。まあ、そんなんで付き合いはあったんです。アフターサービス部門のチーフだった沢田さんと仲良かった。で、ミッキーが今度バンド作りたいんでアメリカから一人ベーシスト呼ぶんだけど・・スティーブなんだけど。ビザとるのに身元保証人になってくれって。それで神田商会が身元保証人になってあげた。それで彼に一応給料を払った。彼カミさんいたからカミさんに僕の手伝いさせた。貿易関係とか。スティーブはねえ、バンド活動やってたんだけど、バンド組むっていうんでタケカワユキヒデが出てたんだけど、ソロじゃダメだったんで、その後ろでやってたんだよミッキー吉野グループ。ゴダイゴってやるようになってそのバンドのバックアップとかやってた。神田商会で。

「当時グレコのCMはゴダイゴがやってたりしましたね」

あれはね。スティーブと和田アキラがね。松竹の大船撮影所でやってたよね。あのコマーシャルみたいよね。

MUSICLIFE19767. (1) 1976年7月号 グレコニュース スティーブ・フォックスカセット、P.U.など




(富士ローランドGRについて)

やりましたよ。GRは開発に沢田さんが手伝ってたね。一緒に九州、アークまで行きましたよ。九州でやってたからね、研究を。最終的に松本で。 ロゴマークもやった。あんまり好きじゃなかったけど・・雰囲気がああいう雰囲気だった。なんとなくね。あんまり好きじゃない。ヘッドのデザインは元々フジゲンにあったのじゃないの?

「最初はレスポール型ので

そうそう、これはたぶん小嶋さんの意見だと思うんだけど、レスポールって人気あんだからそれでいいんじゃねえの?ってそんな感じだと思うよ。僕は間違いなくこれは小嶋さんだと思う。

「小嶋さんもプレイヤーでもなんでもないよね。」

そうそうそう。でもいうときは言うぞみたいな。 ヴァイオリン仕上げにしようって言ったのも確か小嶋さん。プロジェクトシリーズの。昔鈴木バイオリンでこんなことしてたんだぞって。

「鈴木バイオリンご出身だったんだよね」 

「そのあとGOの形になったじゃないですか」

そう。なんでか知らないけどね。僕もうあん時いないから。

「ローランドの社長、エーストーンの技術者なんだよね」

そうそうそう梯さん。技術者っていうか始めた人。エーストーンがハモンドに買収されちゃった。それで売っちゃってローランド始めた。始めるって言った時も覚えてるよ。72年か73年だったなあ・・小嶋さんが営業会議で言ってたなあ。今度こういうのやるからって。


あの、ネットで今回知ったんだけど、詳しい人いるねえ・・なんでこの人こんなこと知ってんの?って。誰に聞いたんだろうって。というか、この人この系統から入ったんじゃ?ってのもあるよね。ってのは・・・ここまでは自分でやりましたよ。ってのは頭の中にきちんとあるのに、それが違う人がやったってことになってたらすぐ分かるじゃん?たとえば、GOなんか絶対自信あるのは、全部自分でやったってのがある。それがこれはこうですよって違う話があった時に・・違うんじゃない?って。GOに関しては・・広告だよ。もう絶対。 スピードウェイって言葉をみつけたときとか・・・凄い嬉しかった。うん。もうこれで出来るなって。

和田アキラのコマーシャル時なんかも、絵を描いてディレクターに説明したんだけど・・・こう最後はクレーンで上げて・・・って。

***4月にもかかわらず雪が激しく降ってくる****

こういう人たちが来るとこうなっちゃうんだよね〜 <<私達のことです(笑)




(77年楽器フェアで展示された現物GO MR−6

へえ〜。 あっ!コレ横ちゃん覚えてる?これこれ。(指板エンドに入っている★★印)これねえ・・2級品。何かどっかに問題がある。あ、ゴメン!2級品って言い方はおかしいんだけど・・こうやって考えて。一般ルートで販売する商品ではない。で、今思い出したのは、これ12階に展示してあったやつ。で、これを出すときに★★打ったはず。伝票上。だからショウモデルってのは当たってるかも知れない。 このGOは、あのGOではない。グレコ・オリジナルだと思いますねぇ。



「これがMR600のプロトタイプだと思っています」

言えてるかもしれないねぇ。僕はこのマークでピンときた。これが明らかに神田の12階ショウルームで管理してたモデル。

「それが何で流出したの?」

それはたぶん・・決算の時に楽器屋に売ったとかじゃないかな。

「じゃあ奈良さん目にしてるギターだね」

もちろん。僕触ってるね。このピックアップ個人的に凄く好きだった。 

バダス・・・これねえ、神田の開発の人にこの間、聞かれたんだよね。なんでこのバダスにしたの?って(実際はバダスではなくてBR2020ブリッジのこと)ちょうどバダスが日本に入ってきて、ビンテージが流行りだした時で、オールドとか言って。メロディー・メーカーとか大量に日本に入ってきた。で、あれが(チューニングが)合わないっていうんで一部改良して(BR2020を)作った。それで当時最先端のパーツだった。それとこのノブとね。個人的には縦一列のコントロールの配置が好き。だから再生産の(最新のプロトは)それにした。

MRは、ネックジョイントに亀裂よく入んなかった?そんなのもあった。浅いから・・。

あと、固定資産税のマーク入ってるのもあるんじゃない?(ヘッド裏に)




(楽器フェア)

「グランドパレスで神田商会だけでやったことあったよね?」

そう。あった。あれはねえ、フェア協会が楽器フェアやらないっていうんで神田商会単独でやるって。Player Magazineとミュージックトレード(業界誌)の桜井さんが頑張った。神田商会と関連ブランド、企業が集まって独自にやったんだよ。78年。

「全体の楽器フェアが景気が悪くて業界ではやらないっていうんで神田商会独自でグレコの発表会みた

なのやったんだよね」

うん。

「それでオリジナルモデルが沢山?」

そうそう。

「パーティーまでやったもんね。あのころが一番金かけてやってたね」

そうだね。景気良かったね。

「グレコで一番儲けてた時」

儲けてたんだろうねえ・・その頃の人に影響与えてたんだねえ・・・。





(フェンダージャパンの仕事)

「ツートーンもほとんど楽器業界の仕事?」

いや、半分くらいかな?あとは全然違うとこだった。そっからが第二の人生。79年かな。

「フェンダージャパンの立ち上げに関しては?」

そしたら今度は神田がフェンダージャパンを小嶋さんがやるって言うんで、電話かかってきて、「お前。フェンダージャパンやるから来い」って。また入れっていうわけさ。フェンダージャパンに。正直言ってすげえ心が動いた。じゃあ、部外でお手伝いしますって。実際立ち上げたの。

「その時の資料がさっきの?」

そう。でアメリカのフェンダー(フラトン工場)行って。

当時のカタログや雑誌の版下




1960年代カタログや参考資料の一部


Fender Japan カタログ


「そもそも実際フェンダーが神田商会にフェンダージャパンを設立しないかってなったいきさつは?」

いい質問するよねえ。核心にバチーって。それはミュージックマンやってたから

「その当時ってのは、グレコ以外もいっぱいコピーモデルありましたよね?フェルナンデスとかトーカイとか。やっぱり神田が作ったグレコが評価されたのが大きい?」

もちろん。もちろん!

「東京の楽器フェアの時にフェンダーのヤツがフジゲンまで行ったって聞いたよ」

そうそう。フジゲンのギター素晴らしかった。

「オレいたから分かるけど、それまでどうやったらいいコピー作るかやってたのが、次の月からフェンダージャパン作るって。トーカイに出し抜かれちゃったからねえ」

そう。出し抜かれちゃった。

「フェンダー系はトーカイがシェア持ち始めた時。それに対抗して、どうやったらトーカイの上が出来るかってそんな会議やってたんだよ。それでスーパーリアルシリーズとか」

あ、それもう僕が辞めた後だ。そうだったんだ。スーパーリアルね。そんなのあったような気がする。今考えたらすげえことやってるよね。コピーで。

(*このあたりはフジゲン1970年代の軌跡 中田氏の証言を参照)


「コピーというと78年に訴えられましたよね?ギブソンから」

ああ、あれはフジゲンがね。訴えられそうになって上手くまとめちゃった。

「100万ドルだから当時のレートでいえば3億?」

それは・・覚えてるのは・・ノーリンだよね?ノーリン・ミュージック。 ノーリンの担当者が日本に市場調査に来た。神田か?フジゲンが持ってたのかな?ギブソンっていう商標を。それをあげちゃったの。それでチャラになった。それで訴訟チャラになったんでしょ?今の中国と一緒だよ(笑)だから返すから訴えるなと。

「じゃあ神田だね。商標持ってたの。その後ギブソンの代理店になるじゃない」実際は富士弦楽器で取得していました。

そうそう。そんときカタログ作ったもん。こんな分厚いの。マツモクで作ってるギターの。マツモクで作ってるエピフォンとギブソンのカタログ作った記憶がある。(間にトレーシング・ペーパーがはいってるやつ)そうそう。それ僕。

「当時ギブソンのカタログなんてもらえなくて、500円で売ると」

覚えてるのはねえ・・北海道のユーザーがねえ・・手紙でね、ドク・ワトソンの弾き方を教えてくださいって来たの。そんなの知るわけがない。ドク・ワトソンは知ってるよ。で、僕はたまたま、Playerに、ドク・ワトソンの英語の本があってそれをコピーして送ってあげたの。そしたら凄い喜んで。 僕調子こいて全部コピーしてやったのよ。そういうことやってた。だから神田の企画室人気あった。小嶋さんには評判悪かったけど・・。

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(その後も機会があるたびに色々教えていただきました)


(小嶋さんについて)

功罪いろいろありますが、ずばり、神田商会中興の祖です。
功の方が大きい。絶大です。あげたらキリがありません。
小嶋さんと出会ってなかったら、奈良は存在してません。
椎野さん、小嶋さん、池部さん。この三人がワタシを鍛えてくれました。
大師匠、大恩人。


1977年 Player別冊「ハンドブック」発刊)
ハンドブック以外にいいいいいいいっぱい本はある。
1976
から辞める1979まではいろんなことをしたので記憶がカタマリであるだけ。
具体的に思い出せない。ギターからピックまでなんですよ。ホントに。ギターポリッシュともやったし、弦、糸巻きや、なんやかんや・・・
いま、ざっと思い出しただけでも「アタシって、すごいですねー」って感じです。よく任せてもらえました。やらせてくれました。



GRギターシンセサイザー発表会について)

ギターシンセも覚えてますよ。
デモの間に食事タイムがあって、そのときいろんな人(楽器屋の店員とかメディアとかミュージシャンとか)がいじったもんだからカッチャー さんのプリセットがおかしくなって(事前のセッティングが崩れた)・・・本番でカッチャーさんが切れちゃってね。

デモの曲は今でも覚えてます。
ベース音がシーケンサーのような感じで始まって、ソレに音を重ねていくデモだった。
今思い出すとかなり稚拙。カッチャーさんはLAのスリーサンズというインストバンドのギタリストで、梯さんの友人。おっさんだったなぁ。
いいのかな・・・若いデモンストレータつかわなくて・・・と思った。
自分が最初にGSを弾いたんだ!といいたかったのかもね。いろんなミュージシャンからの売り込み凄かったから。(もちろんゴダイゴの浅野さん、成毛さん)


僕がウェクスラー(シカゴ)に行ったときに趣味で集めてた弦。60年代のギブソンの弦。
40年間大事に飾ってあったもの。

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・・・・ということで約3時間半に及ぶインタビュー。

その他、いろいろ頂いたり、サインをいただいたり・・記念撮影をしてご自宅を後にしたのであった。

生意気な若者が、運命とも言うべき人々と出会い、20代にして神田商会時代の7年間に大きな足跡を残した。 その人生の中ではたった7年という期間のことでしたが、当時のキッズ達に沢山の夢と道標を与えたばかりか、本場での経験をいち早くストレートに表現してきたことが日本の楽器・音楽業界に大きな影響を与えたと言っても過言ではない。 時には逆風を受け、困難な道や葛藤もあった。それでも自分の才能を信じて進んでいく生き方。 そんな道標を今でも我々に示し続けてくれている。そんな気がしてならないのです。

当時、グレコの広告をワクワクしながら眺めていたギター少年達へ。
最後に・・奈良氏からいただいたお言葉を贈ります。

             「ボクの人生に迷いとか悔いとかは全くないんです。
            道が2つに別れていたら、必ず人が歩いてない方を選びました。」





文 / TAD館長      Special Thanks / Fumiki Nara  Shoji Yokouchi  Basketboy     2012

*************************************無断転載禁止****************************************



2015.3.30追記

Mr. Nara of memories

お会いしてから数年間の短い期間でしたが、沢山のことを教えていただいた奈良さん。

まだまだいろんなことを聞きたかったのですがそれは叶えられなくなりました。

その偉業は我々世代に沢山の夢を与えてくれました。

追悼の意味を込め、生前、ご本人が作成したプロフィールと、思い出の品をここに残しておきたいと思います。




奈良史樹 Fumiki Nara

195189日生まれ

19703月 神奈川県立神奈川工業産業デザイン科卒業(18)

         久保田宣伝研究所コピーライター養成講座

1971年    ヤマハ銀座店企画室委託(19

         ポプコン、世界歌謡祭

19727月 株式会社神田商会入社 富士弦楽器研修(20

         ギター言語の基本を勝手に作った(笑)

         Y版かぶりの激しいイラストカタログ制作

         Candaアコースティックギター 404 303番号定価を止めたシリーズ!

         A Rock始まる椎野さんプロデュース。 Greco成毛滋バックアップ始まる

         日本のロックバンド総取り込み作戦開始

         ZEP日本公演事件

19729月 デビッド・ウェクスラー社入社(シカゴ)(21)

19738月 帰国 株式会社神田商会企画室開設 商品開発、広告全般、輸入業務、

197410月 タブロイド誌Young mate Musicと合併 株式会社プレイヤー設立 取締役就任(22)

197411月 Player Magazine創刊号準備

19753月 Mick Ralphs来社 来日ミュージシャン多数 コンポーネントギター模索

         米国Guitar Player誌と提携

1976年    Greco Project Series考案 Player別冊「楽器の本」発刊 ゴダイゴバックアップ始まる

         ローランドシンセサイザーSystem700登場 猛勉強

1977年    小売店オーダーメイド盛んになる Player別冊「ハンドブック」発刊

         GRギターシンセサイザー ロゴ広告等担当

1978年    TV番組「ロックおもしロック」和田晃、スティーブ・フォックスCF

         ゴダイゴブレークなど超多忙な1年 柳ジョージバックアップ始まる

19799月 株式会社神田商会退社(28

1982年    Fender Japan立ち上げ 同時にツートーングラフィックス有限会社設立

1985年    ツートーンクラブ株式会社設立

2000年    スピナーズ有限会社設立

2011年    株式会社池部楽器店顧問

 

 

 

1961年 横話鶴見区小学校4年生
FEN(米軍放送)を聴くマセたガキでした。

 

1970年 神奈川県立神奈川工業産業デザイン科卒業
デザイン事務所に就職するも4ヶ月で退職、フリーター生活に入る。

 

1971年 人生を変えてくれた三恩人(天才)のトップバッター、ヤマハ銀座店の椎野さんと出会う。
引き合わせてくれたのは、現在スウェーデンでジャズベーシストとして活躍している森君(当事青山学院大)だった。椎野さんに勧められて委託になった。GYMとは銀座ヤマハミュージックの略で、椎野さんを中心にアマチュアミュージシャンを銀座に集めて音楽活動のバックアップをしながら彼らの楽曲を管理展開しようと試みた団体。その後のレーベルだとか、音楽事務所だとかの走り。ヤマハ社内でも注目され、ポプコンスタートのきっかけとなった。

GYMでは音楽活動だけでなく、椎野さんのプロデュースで店内のポップやオリジナル曲のコンサート、レコード製作もやった。「創刊号」という実験的2枚組みLPから、もとまろのサルビアの花がブレークした。

 

GYMでは月例のオリジナルコンサートをやり新しいバンド、ソングライターを発掘した。矢野顕子もいた、松任谷正隆、小田健次郎、ガロが出た記憶もある。

 

店頭のショウウインドウ、サインのデザインを任せてもらった。でかい仕事だった。へまもたくさんやらかしたが夢中だった。椎野さんはすごい人でした。

 

店内突き当たりには「ビバルディの四季」に替わって欧米ロックバンド、ミュージシャンたちの相関図「Music Tree」に差し替えられたこれは山田敦朗君が描いた。クラシックの銀座店がオリジナルポップス、LMの拠点に変貌した。http://www.gramco.co.jp/company/detail.php?cate_id=4

 

椎野さんは神田紹介へヘッドハントされ、私も金魚の糞のようについていった。アルバイトでやった最初の仕事はギターの広告だったと思うがどんなデザインだったのか、まったく記憶にない。ただし、サラリーマンの一か月分のギャラだった。
1972年に神田紹介ルートで渡米するのだが、その間で記憶に残る仕事は同級生の山下信夫君のイラストをつかったGrecoのカタログとCandaというアコギの制作だった。

 

私がシカゴにいる間に、目まぐるしく業界の様相が変わるのだが・・・椎野さんは(レオミュージックの長沢さんもからんでおられたと思う)神田商会Grecoと成毛滋をマッチメイク(いわばエンドース)をした。

たぶんEG480までは椎野さんのプロデュースだ。エレキの教則テープのアイデアは小嶋さんと椎野さん、それから成毛さん。成毛さんの力はほんとすごくて、めちゃむちゃチャーミングだった。影響力で言ったら成毛さんを超えるあるいは比較するミュージシャンは誰もいません。イカす!ってこと。子供たちのハートをパッとつかんじゃうんだからね。ただ、発言が直線的だったから誤解されやすかった。凄い人なんですよ。

えーと、アマチュアロック祭(A Rock)を考えたのも椎野さん。私や敦朗君は実行部隊というか、椎野さんのアイデアを表現するスタッフでした。

1973年に帰国したとき、椎野さんはとうに神田紹介を辞めて楽器のプロデューサーとして業界を席巻していた。モリダイラでH.S.Andersonを世に送り出し、ESPPACOを創業し、Vestaxを世に送り出したのも椎野さんだ。私らの5年先を行っている人、めちゃめちゃエネルギッシュで面倒見のよい親分が椎野さん。

 

さて、お礼奉公のつもりで神田商会に入社し、私が関わったGrecoは単板削りだしのEG700広報からだ。当事の商品開発はアフターサービス部門が担っていて、チーフの澤田さん(77年に亡くなられた)と小嶋社長、小嶋さんの実弟の鈴木政行さん(亡くなられた)が開発をハンドリングしていた。私は広報マン。

 

成毛モデル=EG800コンタードボディ/ブロックポジションマークについてはしばしば質問されるが、EG800を社内的にそう呼んだことはあったかもしれませんが、そう名乗って広告した記憶はありません。

コンタードボディ/ブロックポジションマークのEG・・・では長いので、そう呼んだのかもしれない。

誤解を避けるために言いたいのですが、当時富士弦楽器はOEMで様々なブランド、モデルを作っていた。左の写真は1977年頃だと思うが、VBヘッドElectraブランドのES335だ。


フェイセズが来日した時、神田主催のコンサートに山内テツが出演(泥酔していた)しギターを弾いたのだが、メイプル指板のLes Paulのコピー、後のEG650など国内にはまだ出てこない仕様のチャーミングなモデルがたくさんあった。これらが後にさまざまな憶測と伝説?を創作していく。曰く、**は誰々がデザインした・・・そんなことはなくて、富士弦に行けば素材がたんまりと、なんでもあったんですよ。それをどう組み合わせるかなんです。それにグレコのロゴを入れて試作する。それが決算放出で市場に流通した。後日NCルーターが導入され、ボディの加工の精度と汎用性は飛躍的な進歩を遂げます。

 

1974年.神田商会アフターサービス部門の人たちと。

左からアンプPA/エフェクター/ドラム/ギターなどなんでもオッケーの小幡さん(私が辞めた後の企画室長)、岸田さん(Nancyオーナー。当事イシバシ楽器からの研修)、鈴木さんアンプPA/エフェクターなど電気専門JaggBoxの開発に関わった、沢田さん、そして私。

 

 

1974年。フェイセズが来日した時にロン・ウッドがギターをオーダーして行った。その詰めの打ち合わせにロンドンに行った。ここでRoto Soundの弦のエクスクルーシブを決め、ZEMAITISと出合った。
ロン・ウッドといえば、ピムスNo.1というキュウリを入れたカクテル。この思い出につきる。

 

19781979年のドゥービー来日コンサートのときの1枚。
確か、ギタークリニック(ギターシンセかも)をやったんだと思う。ドラムのキース・ヌードセン、アル・クーパーも参加し、ベースはカシオペアの桜井さんだった。

 

1976年.楽器の本の取材でGrateful DeadBob Weir宅を訪問した。
取材は河嶋さんとコーディネーターのダン・ウエストブルック君の3人。プロレスオタクの陽気な青年だった。

 

そのチープトリックの二度目の来日のスナップです。
伝説のBUDOKANアルバムがスマッシュヒットして凱旋来日。掲げているのは読者のデザインのRickモデルの記事。このとき、まだメジャーになっていなかった「ストラップRock Pin」を2ダースプレゼントしてとても喜ばれた。

 

神田商会では多岐にわたって学ばせてもらった。
ナマイキな若造を小嶋社長は息子のように可愛がってくれた。8年在籍した後半4年はしんどいなーと感じることが多かったけど、今日を迎えられるのも小嶋さん、神田商会のお陰です。とても感謝しています。

Player Magazineの創刊は記憶に残るプロジェクトでした。スタッフの意気込みが素晴らしかった。

写真右から島田さん(社長)、レイアウトの綱島さん、編集の田中さん(二代目編集長、社長)、座っているのがオーナーの山中さん。その後ろで手を組んでるカップルの男性が、初代編集長の河嶋彰さん。

 

Playerはシカゴ滞在中に出合ったさまざまな楽器雑誌(音楽雑誌ではない)、サブカルチャー誌を日本でも出版したくて小嶋さんに相談し実現した。その初代編集長が河嶋さんだった。河嶋さんなくしてPlayerの隆盛はなかったと思う。彼とは本誌の編集制作もだけど、楽器の本、Beck Book、ハンドブック、The Guitarなどの別冊の数々をいっしょに作った。編集力だけでなくデザインセンスもよく、独特の嗅覚をお持ちで、企画力もずば抜けていた。

レコード会社からチープトリックというへんなバンド(楽器マニアがいる)が初来日すると聞きつけて私もお手伝いした「リック・ニールセンモデルをデザインして贈ろう!」は彼の企画。

最新の情報を紙面で紹介するだけでなく、カタチにする・・・例えばストラトのベックモデル、同じくベックのTE、クラプトンのブラッキー、ブライアン・メイのギター、これらは彼の情報を市場にフィードバックしたモデルだ。

今日ではあたり前になっている音楽情報の商品化をあたりまえのようにやったのが彼です。





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奈良さんの思い出(ガラクタギター博物館版)

生前にいただいた思い出の品の数々・・・

 

Tシャツは、余命宣告を受けてから作成したもの。

座右の銘が英文でかかれている。

HE NEVER GIVES AN ANSWER BUT THE FOOL ON THE HILL

一枚一枚にサインと落款が施された。

お会いした際に書棚から抜いていただいた発行された当事のままのPlayer別冊の見本誌など。

Gibsonの弦は1972年のシカゴ時代、思い出に持ち帰って額装され書斎に飾っていたものを、オフ会の景品として供出いただいた。 しかし私がビンゴ大会の1GETで獲得(笑)

Fender Japanのカタログ・広告制作に携わった際の資料の中にフェンダー・ストラトキャスターの設計者フレディ・タバレス氏がオフィスで設計しているポジがあった。
机の上にはネックと思しき設計図、壁にはストラトキャスターの設計図が貼られている。




一番最初にお会いした当日。ご自宅にて。

 

ミック・ラルフス、リック・ニールセン、ローリー・ワイズフィールド、スージー・クアトロとのスナップなどをいただく。


 

創刊号 より。 松任谷氏もいる。

 

祖父、祖母。ルーツは北海道で、おじいさんが北海道大学の云々・・と聞いた気がする。

 

 

1977年のGreco PU-0Cの広告で着ていたチェックのシャツが出てきた!と写真を送ってきてくれた。

どれだけ物持ちがいいんだ・・。

 

確か御茶ノ水の楽器店でビザールな中古ギターの写真をメールしたら、そういうのが欲しいといっていたので

松本で中古ダンエレクトロの写真を送ったら、早速買って写真を送ってきた。このチープなのがいいんだそう。

 

おそらく初公開であろう。奈良さんご夫妻が新婚旅行も兼ねて1975年、MRをアメリカのミック・ラルフスに渡しに行った時の公演を告知した新聞記事とその前日の写真。 Zeder氏提供。



2012年にお伺いした時に、当時を思い出しながら書いたヘッドデザインのラフスケッチ。
MRは元々はユリの花みたいな植物のデザインだったが、MRnではダイブする女性に変えた。



神田商会時代に入手し、退職後もギター関連の仕事の時には必ず参考にしていた資料。


TOM WHEELER氏著の「GUITAR  BOOK」
英語の原書です。ここで使われたギターの撮影方法が不思議で
奈良さんが直接 WHEELER氏から小道具を送ってもらって
後のグレコのカタログ撮影で同じ手法を用いたとJV誌でも語っていました



R.ASPEN  PITTMAN氏著の「THE  TUBE  AMP  BOOK」
こちらも英語の原書。ギターだけでなくアンプの基礎知識も取得するため
購入したそうです。当時の主要メーカーのアンプの回路図が載っています。



市河三喜氏編纂の「研究社 NEW  LITTLE ENGLISH DICTIONARY」
特にシカゴ時代に仕事・生活すべての面で役に立ったという辞書。
英和と和英が1冊にまとまったコンパクトな辞書です。
かなり使い込まれて年季が入ってます。


 

2012年、松本オフ会にゲストとしてお越しいただいたときのスナップ。

グレコで青春時代を過ごした人、そうでない人も伝説の人の話に食い入るように聞き入っていた。

そして宴は大盛り上がりになったのです。

 

MRMRnのプロトタイプも展示した。

 

その時の様子が地元新聞のタウン情報に掲載された。

 

横内会長(当事)のお宅で記念撮影。

 

Player広告。おそらくこれが奈良氏が神田商会に入って最初に手がけたというEG700の単板広告。

 

Playerの記事。ウィッシュボーン・アッシュのギタリスト LAURIE WISFEALD氏が記事中でGrecoSA-500とフライングVを購入したと話している。 どちらも写真が残されている。 服装が一緒だね。

因みにSA-500はボディが小さくてボクにはピッタリです。フライングVは今ではギブソンでも出していないので非常に欲しかったものの一つです と語っている。 いわゆるメダリオンというやつですね。


 

出会ってほどなく、MRnの発売が決まり、広告やサイトを手がけられていた。私は多少なりともお手伝いが出来て光栄に思います。 一番貢献したのは生粋のグレコマニアであるZeder氏。

広告に使っているミックの写真・・私が複写してお送りした写真だな(笑)

 

 

いただいてばかりではありません。私が小物作りにハマりはじめ、自慢のために奈良氏に写真を送りつけていたら「MAXOND&Sのミニチュア・マグネット作ってくんねえ?」とリクエストがありプレゼントした。

かなり思い入れがあったエフェクターらしい。      ギター材でスプーン作ってとリクエストがあったなあ。

 

アメリカのギター研究家、フランク氏が取材で来日した際も会っていただいた。

 

 

 

大きくて、頭の回転が速く、ものすごい才能に溢れた人でした。

沢山の功績を残してくれました。

奈良さんから頂いた手記から

どんな事業も「うまいキャッチフレーズ」でくくれたらいいんですがね。
例えば、ソリッドボディの始まりもそうです。
神田商会の社内事情があり、営業・管理どちらも事業の慌ただしさに加えて派閥がアリ、セクトの地位の競り合いがり、個人のしのぎあいがあり、外に 眼を向ければメーカーにもあり、小売店にも、媒体(音楽雑誌、業界誌)にも、ユーザーにだってある。
こいうドグマ渦巻くメルトダウン状態の中から、すっきりした(編集しやすい)答えを出すには各自のエゴとお上の叱咤に堪えて「みんながいい子にな らなくては行けない」
ところがそのお上の一声が、伝説が一人歩きする余地を産んでるんです。
ネットを見ると、しばしば恥ずかしくなる。
当事者はそこまで思慮深くないし、掘り続けていたら締め切りがきちゃう。
見切り発車の毎日でした。そこでできた箴言が
「締切日が納品日、締切日が入校日」

このスピード感が、みんな「なにものかに憑かれたように働いた」という記憶になってんでしょうね。
月並みな表現ですが、夢があって、そのための努力を惜しまなかった。(これって、月並みな行為なんだねきっと)
その息吹をいちばん感じたのは富士弦でした。
















私が印象に残っている奈良さんの言葉「君はいつもそんな感じなの?」
えっと・・・私ヘンでしょうか?(笑)









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2015.3.30
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