ファーストマン
(故)Kazy森岡一夫氏とFirst man Liverpool 67開発秘話
はじめに
森岡氏は1960年代、若くして日本の楽器業界の黎明期を作り上げてきたうちの一人と言っても過言ではない方でした。
たった数年の短い時間ではありましたが、取材をきっかけに1960年代当時の音楽業界のこと、楽器業界のこと、ギターやシンセサイザーのことなど、色々お聞かせいただきました。
時にはキーボード演奏家&ボーカリストとしてコンサートを開くなどお元気でおられました。しかしまもなくして癌が再発し、主治医からは横隔膜に転移したら終わりだと告げられたそうです。それでも「クリスチャンである私は死に対して何も恐れていないんです」と気丈に語っていたことが思い出されます。そして命のあるうちに全力で何かを残そうとしているようでもありました。
楽器業界では波乱万丈で苦労も多かったようですが、晩年はクリスマスコンサートを開催したり、余生を楽しんでおられる様子でした。
とても頭が良く、細身のお洒落な紳士で、英語が堪能、歌とキーボードプレイヤーとしての才能にも秀でていて、とてもご家族を愛する方でした。
ご自身の温めていたアイデアのギターの相談など、色々な話を亡くなられる1ヶ月前までやり取りしておりましたが2014年、奥様が不慮の事故でお亡くなりになった後、森岡氏も後を追うように7月にお亡くなりになりました。享年77歳。
あらためてご冥福をお祈り申し上げます。
ここでは短い期間ですがギターについて回答いただいたこと、松本との関係、思い出などを少しではありますが残しておきたいと思います。
お会いしてからかなり時間をあけてしまったため、まだ抜けている記述も多いですが機会を見て埋めていきたいとは思います。
森岡氏との出会いは2012年のことでした。
アメリカ人のギター愛好家で研究家のフランク氏から私への質問がきっかけでした。
それは日本で1960年代に製造され、数多く輸出された日本製エレキギターとそれらメーカーについての質問でした。奇しくも当サイトのコンテンツ「松本GUITARS」をさらに充実させ始めていた矢先のこと。翻訳ソフトを駆使して(笑)彼に色々な協力をしていたところ、日本に来て各メーカーや関係者と会いたいとの申し入れがあり、ボランティアで案内をしたときのお一人が森岡氏でした。
メールでの事前調整の後、電話でやりとりをしてみると、英語が堪能、発音も素晴らしく記憶力も確かでとても話し好きな方でした。
そして2013年5月、フランク氏と通訳のパトリック氏を乗せて山梨のご自宅を訪ねました。
通訳は全く必要なかったのですが、通訳を介さず会話してもらうこができ、たった数時間ではありましたが濃密な取材となりました。(彼の著書 HISTORY OF JAPANESE ELECTRIC GUITARSを参照)
英会話が得意でない私は双方が英語で話されると内容がさっぱりわからず困りましたけど(笑)
これをきっかけに、個人的なお付き合いをさせていただき、ギターのこと、業界の方々のことや、大学時代のことなども聞かせていただきました。
特に、楽器業界では出てくるお名前が錚々たるメンツで業界トップの方々ばかり・・・その人脈には驚かされました。
(河合からテスコ、そしてファーストマンへ)
森岡氏は山之内製薬の創業家に養子として迎えられ、大学卒業後はご実家の山之内製薬に入社するも転職。ピアノ演奏や音楽、語学が堪能であることを見込まれ河合楽器製作所に入社。当時からすでに電子オルガンや機器にも早くから精通していた森岡氏はテスコに出向を命じられる。後1962年に河合楽器を退社し、20代の若くして自身の販売会社設立と平行しテスコの役員となる。
まだ日本国内にはエレキギターの需要が殆ど無いなか、1963年にはいち早くエレキバンドのデモンストレーター(チェックメイツ)の育成と市場開拓をしており、まさに日本国内におけるエレキ文化の立役者の一人だったといえるでしょう。
チェックメイツ
そして1965年1月、日本のエレキブームの火付け役、ベンチャーズの二度目の来日。
そこで将来無二の親友となる、ベンチャーズの二代目リードギタリスト ノーキー・エドワーズ氏と出会うことになります。
森岡氏のお話では、その来日時のコンサートでベンチャーズが使用したアンプはグヤトーンのアンプで占められていたが、森岡氏はそれよりはるかに高出力で高音質なテスコのアンプの設計にも関わっていたため、彼らが使う機材をテスコに替えさせることを考えたとのことです。
そしてトランジスタラジオを手土産にそのアンプをノーキー氏本人に直接楽屋で試してもらうチャンスを得て、持ち込んで試してもらった結果はOKで、その日の公演からベンチャーズの使用するアンプは全てテスコのアンプに取って代わられたそうです。
その後のエレキブームはテレビ、映画で瞬く間に加熱。しかし、一気に盛り上がったエレキブームは社会問題となり1965年10月には栃木県足利市教育委員会の運動がきっかけで全国に波及した「エレキ禁止令」を境に急降下したことはご存知のとおり。数年で多くのメーカーや下請けが消える中、テスコも経営不振となり河合楽器に吸収されることになる。
そんな紆余曲折の中、才能がある森岡さんにはヤマハその他からのヘッドハンティングも多かったようだったが、1968年にご自身の名前から命名したファーストマン楽器製造株式会社を設立。
それはビートルズ人気から派生した新たな流行のGSブームが始まる少し前のことです。
ギターもソリッド・ギターが衰退し、次にセミ・アコースティックギターが売れるようになっていく。
当時のギターのブランドロゴはGとFで始まるものが多いのは知られていますが、
ファーストマンのブランドロゴも、偶然にもFenderとは違うがFから始まるもので
一夫 = 直訳でFirst manとしたとのことです。
(ファーストマンとテスコ弦楽器)
ここで松本界隈との接点が生まれます。
森岡氏のお話によると、ボディの型枠などはテスコ弦楽器に指示して製作し、トレモロユニットの金属部品は、名前は失念してしまったが岡谷の工場に作らせたとのこと。
当時は松本にはしょっちゅう来ていて、今は無き浅間温泉のウエストンホテルに宿泊していたそうです。
スタート当初は丸山社長からテスコ弦楽器にあったテスコの半製品のセミアコを買い取って欲しいと頼まれ、そこにFirstmanのロゴがつけられたとのこと。
バロンとかバロックなどの機種はテスコ弦楽器で完成させ最終調整のみ東京営業所と大阪営業所と神戸工場で行っていたそうです。
(余談で、丸山社長はファーストマンの他にHoneyのブランドにも在庫品を供給し、全く同じギターが2社から発売されるという事態になったらしい)
「私はテスコ崩壊の日まで、松田社長を最大限サポートする気持ちでした。崩壊した後に丸山社長と出会いました」
テスコ弦楽器の丸山社長は、他のコーナーでも記述したとおり、元々は創業間もない富士弦楽器の工場長だったが、謀反を起こしてテスコと会社を興した人物。ベンツを乗り回し、接待では全裸の女性を横に座らせるなど、その言動や性格から、森岡氏は、製造の全部を任せたら必ずコピー品を作ると考え、ボディのみテスコ弦楽器、ネックは別でやって完成品は作らせなかったとも言っていました。
「当時テスコ弦楽器の工場を管理していたのは松本専務で、外国との直接取引をしていたのはノーマン社でした。
それらの昼の担当は、ビジネスは松本専務で、好色好きな外国人の夜の接待役は丸山氏の仕事であったと思います。(笑)
丸山社長は、私が注文するエレキギター木工の前金を殆どハニーの運転資金に当ててハニーを系列化し、その後ファーストマンも配下にする野望を持ったのです。
丸山社長は、私が開発した主要製品のパーツ発注が、金型をはじめ全て別の専門業者に直接オーダーをし、最終アッセンブリーをファーストマン自社工場でするのを不満に思っていました。丸山氏が本当に野望家だと判断した私は、信州で他の下請けを模索した時の一社に黒雲(製作所)との出会いがありました。その他にも下請けを捜し出して確保しました。
準備が整った時点で、丸山氏に対してファーストマンはテスコ弦楽器に対して、資金援助に当たる前払い金停止を申し込みました。これによって直ぐにテスコ弦楽器は資金繰りが悪化し手形の決済が不可能になりました。手形不渡りの前夜に私は丸山邸に呼び出され私に手形でよいから支援してくれないかと申し込まれました。また丸山氏は森岡さんの保証がないと切り抜けられないと懇願しましたが、翌朝私は心を鬼にして去りましたが同日に倒産したのでした。もちろんハニーも道ずれになりました」と語っています。これがテスコとハニーの終焉の顛末です。
話を戻します。
同時期の1967年には、本家Mosriteの日本における初めての輸入に関わり、日本製モズライトを作るためセミー・モズレー氏からの技術指導を受けるため森岡氏は渡米。特に当時の日本製ギターでは不可能だったあの細く薄いネックの製造技術を得ることに成功し業務提携。1968年には日本製モズライト・アベンジャーが生まれました。
アベンジャーは木工を黒雲製作所、組み立ては自社工場でやった。
(幻の試作品 First man Liverpool
67 Prototype)
実は1本だけと思われていた試作品がもう1本存在していました。
森岡氏は、最初に製作した2本のLiverpool67だけはご自身で作り上げたと言っていました。
ファーストマンの広告塔として選んだのはまだ駆け出しのブルーコメッツ。今風に言えばエンドーサーだが、彼らが大ヒット曲「ブルー・シャトウ」をひっさげて紅白歌合戦にTV出演した際にヘッドが大きく映し出されたそうで、「その宣伝効果は絶大だったんです。しかも広告費はタダ(笑)。あれは新しいFenderのギターか!? と山野楽器に問い合わせが殺到したんですよ」と森岡氏は笑って話されました。
森岡氏は、ピックアップも市販のマグネットなどを使い、自分で設計、波形を見ながら試作を繰り返しこのギターに合う、クリーンで大出力のピックアップを作り上げたそうです。
「私の設計したエレキギターの音色は、全て第一線で活躍していたギタープレーヤー
に徹底的に試奏してもらいディスカッションしながら音色の向上に努力しました。それらのディスカッションはお酒を酌み交わしながら一晩中行ったことも度々ありました。
ただしギターは弾けなくても音楽を良く理解していたため、どのような音創りをしていけば良い音になっていくかの判断は早かったと思います。
特にリバプール67に関しては三原綱木氏が非常にクリアな音色とパワーを希望したのでピックアップの設計は試行錯誤工夫の連続でした。
当時エレキギター設計に挑戦した多くの人々が居たようですが、皆コピーや勘で設計していた様ですが、私だけは理論的に設計していったものと思います」
「当時のブルーコメッツのリードギターは三原綱木氏でしたが音に関してはベースの高橋氏が主に主導権を持っていました。
ミュージシャンの音に対する表現は、ガツンとした音とか、低音部がガーンとはりのある音
とか、技術系の私はその事を聞いて、次に試作するマイクポジションとか周波特性の判断を
しなくてはならないのです。
当時来日して演奏していたスーナーズというフィリピンバンドを一緒に聞きにいき
ベースの音の低音部をもう少しはっきりさせて欲しいとか色々な注文でした。
私はピックアップのアタックタイムとディケイタイムのみ高域倍音がはっきりと発音され
両タイムの減衰速度を短くしサステインレベルはやや低いが低音部基音の透明度を良くする様に試行錯誤しました。
これにはギターに相性の良いアンプまで一体になって設計して、夜明けまで話して自分なりの結論を出していきました」
「当時ファーストマンの幹部の一人に、もとカントリーウェスタン&ロカビリーの石橋イサオ氏が在籍していました。彼はロカビリーミュージシャンとしては日本を代表し第一線で活躍していましたが結核をわずらい静養をかねてファーストマンで楽器開発時に色々なテスト弾きをしていました。
私は彼の演奏を聞きながら、いかにブルーコメッツのメンバーの好みの音にあわせることが出来るのかを技術的に判断し試作を進めました。
そして高橋氏に、その出来たベースとアンプを引き渡した直後にブルーコメッツと美空ヒバリさん競演の真っ赤な太陽のレコーディングがありました。
音にうるさい注文の多いヒバリさんは、高橋氏に向かってベースさんすごく良い音ですネ。
そういわれた高橋氏はその後美空さんにほめられたことをいつも喜んで自慢にしていました」
「三原綱木氏はコード弾きをしても混変調による和音のひずみを取り去るための希望を強く求めました。
いわばバイオリンも共振しやすい事を追求した楽器でありそれを避けることでした。
それに似ていると共振しやすくコード弾きをすると狂振(ハウリング)まで起してしまいます。最初の試作機一号二号はセミアコでした。スタイルはセミアコですが、共振部分を最小限に趣向錯誤で排除しました。
次にピックアップの設計です。ボディーの共振ピークを避ける特性に設計したのです。
これはコイルのターン数を減らして出力はローインピーダンスにしてしまいました。
ローインピーダンスにすると、混変調歪と出力は平行して低下します。
それを解決するために弦の振動が大きく作用するように、ピックアップにマグネットの磁束サポートを追加しました。
ピックアップのポールピースに平行して付いている 1〜3弦 4〜6弦 の二つの板です。
これによりコイルからの小出力を機構的にパワーアップしました。
このためインピーダンスが低くなりSN比と音の分離度は極端に良くなり、ソロパートと同じくコード弾きも澄んだ音質を得る結果となりました。
それらの解析には岩通のシンクロスコープ(岩通オシロスコープのブランド名)を複数使用してデーターを確認していました。当時、一般的には複数現象を同時に確認できる
オシロスコープは無かった時代でした。アナログ時代はアナログでの確認しか出来ない時代でしたが超アナログの自分の聴覚と、オシロスコープの共同作業でした。
当時の他社の状況は判りませんが、電子オルガン開発中であった東芝の音響工学担当であった学者が熱心にオシロで研究をしていました。しかしこの学者の設計した電子オルガンの完成度は低く製品化されませんでした。 |
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「特にノーキーさんは高音部に高調波をさけたメローな音を好んでいると言っていました。
1965年ベンチャーズ来日時に私は彼のギターの第一弦の細さに驚きました。細ければ細いほど高調波倍音は多くなります。私は当時日本にはそのような細い弦は無かったので質問してみたら第一弦はバンジョーの弦を使用し第二弦はギターの第一弦を使用しているとの事でした。
そこで私はライトゲージを弦の製作会社に特別生産を依頼したのが、現在普及している
エレキギター用の弦です」
「ファーストマン・リバプール67とモズライト・アベンジャーの最終出荷検査は
全品 石橋氏が徹底的なチェックをしてくださっていました」
そうした森岡氏の試行錯誤によってリバプール67の1号機2号機は完成した。
試作されたうちの1本は直接、三原綱木氏に渡され、サブギターとして用意されたもう1本はサブとして使われることは一回もなく森岡氏が保管することになりました。
そしてこれが初めてご自宅にお伺いした際に見せていただいたFirst man Liverpool67の試作品。
三原綱木氏のギターとして用意されていた2本の試作品うちの片方のギターである。
ボディには森岡氏直筆のサインが入れられている。
サインについての思い出話で、当時、森岡氏がコンサート会場に行くとリバプールを持ったファンがサインを求めてきて、ギターに何十本もサインをした思い出があるそうです。
この貴重な試作品のギター。森岡氏が生前に関係のあった数人に声をかけ譲渡先を探すことになり、できたら日本に置いてもらいたいと私にもご相談をいただきました矢先に他界されそのまま音信普通となっておりました。
ツテをたどって探したところ、それは次女で音楽家でもあるMIMAさんが受け継いでおられました。そして縁あってアメリカに送られることになりました。
ご好意で、日本を去る前にこのギターを撮影することができました。
49年ぶりに里帰りしたリバプールのギャラリーをご覧下さい。
やはりこのカブトムシ・シェイプは森が良く似合います・・・・。
MIMAさんは、知る人ぞ知る、シンセサイザー・ユニット「コズミックインベンション」のメインボーカル&ドラムで、あのYMOと最初のコンサートを行った方です。
NHKみんなのうた コンピューターおばあちゃんを歌われていましたね。
現在も音楽活動をされています。
(その他、思い出の写真など)
森岡さんが、リビングに飾られた奥様の若かりし頃の写真と、娘さんのウエディングドレス姿の写真を自慢げに見せてくださいました。(奥様は森岡氏の話ではクオーターとのことだが当時としたらとんでもない美人だと思われますね)
奥様も元々河合楽器のショールームでデモンストレーター、カタログのモデルなどもされていたとのことで、物静かで常に一夫氏に寄り添っておられる姿が微笑ましかったです。
奥様がお亡くなりになった時、森岡氏から私が撮影した写真から遺影の作成を頼まれ、感謝されたことが思い出されます。
森岡氏ご自身の部屋で片隅に置かれていた当時の緑色のドラムセットを見て、これは娘の使っていたドラムですと嬉しそうに語っていました。
2013年の5月17日に、友人のノーキー・エドワーズ氏が久しぶりに会いに来るので一緒に会食をどうですか?とお誘いいただいたときのショット。
何を隠そう・・私が一番最初にエレキギターで弾いたのはパイプラインだったのです。
私は緊張で顔がひきつり・・・・でも光栄なことこの上ありません・・・。
お土産にモズライト・The Venchersモデルの自作キーホルダーを差し上げました。
これがその時私が撮ってあげた写真。これがお二人で並んで撮った最後の写真となってしまいました・・・。
ノーキー氏と奥様のジュディさんに、ファーストマンのカタログや、チェックメイツ、その他の説明をしているところ。
試作品と一緒に記念撮影。
即興で森岡氏のピアノ演奏も・・・。
後日、山梨のホテルでのクリスマスコンサートにて
リハーサルで娘のMIMAさんと
参考文献:Firstman story