マツモク工業株式会社

エレキギター生産24年の軌跡

(ミシンキャビネット製造メーカーからギターメーカーへ)


Matsumoku Industrial Co., Ltd.
Electric guitar production 24 years locus (From sewing machine cabinet maker to guitar maker)



松本で創業し、1960年代より廃業する1987年まで日本を代表するギター製造メーカーとして富士弦楽器と双璧をなしていたマツモク。
創業まもなくから外資系大手ミシンメーカー、シンガー日鋼の子会社としてミシンのキャビネットの専門工場であったが
ギター製造メーカーへ転身していったという歴史を持つ。 
一流メーカーの系列としてその技術と規模を存分に生かし、松本をギター産地として有名にしたばかりか地元に雇用を生み出した功績は大きい。
ギターの生産は実質24年間、日本のエレキギターブーム黎明期から関わり、魅力的なモデル、数々の名機を送り出してきた。
廃業から30年経過し、今となってはその歴史を掘り起こす事が難しいのですが、残された資料と、わずかの関係者の方々の証言、そしてその軌跡をここにまとめておきたいと思います。





松本木工株式会社(1951-1987)
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1950年代、山に囲まれている長野県は林業が盛んで、乾燥した土地柄もあり木工産業が栄えており、松本市内には大小さまざまな木工関連の会社があった。
その一つに信州木工という大手家具製造メーカーが松本市渚にあった。戦後間もない頃は進駐軍用の整理箪笥などを作っていたそうだ。そこの工場長だった塚田里巳氏が、火災による引責で退社し、当時の松本市栄町に興したのが松本木工株式会社だった。
(同年、松本木工でのギター製造の第一人者となる原山則勝氏が21歳で家具職人として入社する)
1950年代 栄町時代の松本木工の塗装工場。



 ほどなくしてアメリカSINGER社のミシンテーブル、キャビネットを製造するようになり、1960年にはシンガー社と日本製鋼所の合弁会社、シンガー日鋼の100%子会社として松本市並柳に松本市の誘致で工場を建設、移転する。
敷地面積40,000u、建物14,000u、木材の天然乾燥場、3機の人工乾燥設備、400台の木工機械。1300mの自動コンベアーを誇る大規模な工場だった。 親会社から新しい社長を迎え塚田氏は常務となる。
(1963年に美術大学卒の林信秋氏が入社、ミシンキャビネットのデザインに従事)

↑1960年 新築移転した時の記念写真。         ↑1975年の工場全景



ギター製造のはじまりは、1963年まだエレキギター生産が始まったばかりの富士弦楽器製造の横内専務(当時)が頻発する塗装クラックの相談に、知り合いの百瀬氏を尋ねたところから始まる。(詳細はフジゲン創成期&原山ギター製作所を参照)→フジゲン創成期  原山ギター製作所

富士弦楽器の横内専務から木材の乾燥の申し入れをされたのは塚田常務で、乾燥からボディ、ネック全ての加工製造までを引き受けることになった。(その時の商談の席に、当時製造の責任者だった原山氏も社長室に呼ばれて、ギターの加工ができるかどうか判断を求められたそうである。その時はあまりいい返事はしなかったそうである)
実は松本木工もシンガーのキャビネット製造の仕事が製造コストの安い他国へ移ってしまったタイミングだったため、それは渡りに船の申し入れだった。
松本木工は移転新築したばかりの大きな工場で、当時から立派な工作機械、乾燥設備を備えており、それは最初からギターの木工に関する全ての製造設備と技術を兼ね備えていたことを意味する。
ギターの生産が始まると、富士弦楽器からのギター木部OEM製造依頼は、月500本、1000本、2000本と増えていき、富士弦楽器の三村社長はさらなる増産を申し入れるも、早川重役はフジゲンの仕事は3000本以上はやらないよう指示をした。それには理由があった。
外資系の会社で、一流大学出身の人間が多く在籍し、人員も豊富な松本木工は、すぐさま下請けだけではなく自社ルートの開拓、製造に着手し、ビクター、コロムビアなどの国内向け、その他海外バイヤーとの取引が盛んになる。



1960年代のOEMをしたバイヤーズブランドは今のところ不明ですが、黎明期のピックアップは元アヲイ音波(テスコ)の技術者だった疋田氏が創業したピックアップ製造メーカーの啓陽、後にゴトーなど。金属部品は信越鋲螺などが製造した。

1964年、第一次エレキブームにより生産量が増える。 グヤトーンの松木社長の紹介で荒井史郎氏が会社に訪れ、荒井貿易のAria製造と輸出が始まる。また、貿易商として早くからギター業界を知る荒井氏より海外から持ってきた数多くのサンプルギターの提供を受ける。
1964年の写真。工務の一角に設けられた試作専用スペース。


1965年、日本では第一次エレキブームが頂点を迎え、その波に乗りエレキギター生産は好調となった。
また、ソリッドギター・ブームのさなかに荒井貿易の荒井史郎氏が持ち込んできたセミアコースティック・ギターの生産にもいち早く着手(セミアコといっても構造はフルアコ構造であったはずだが) 
1966年雑誌ビクター、コロムビアのギター

エレキブームの代名詞エレキの若大将

1966年、11月の足利教育委員会のエレキ追放運動をきっかけに日本中がエレキ禁止の機運が高まり、エレキブームが急速に終息。その影響でソリッドギターの販売が急落。日本のギターメーカーに暗雲が立ち込める。
代わりにビートルズのブームに移行し、ソリッドギターの代わりにビートルズが使用していたタイプのホロウボディのセミアコタイプギターが売れ始める。 Aria Diamondブランドのセミアコタイプ好調になる(1202T、1302Tなど) 因みにAriaの商標を河合楽器が所有していたためブランド名をArai Diamondに変更。
各社が苦しい経営を強いられ倒産も相次ぐ中、セミアコタイプの生産によりギター部門でのダメージをしのぐことができた。


1967年、GSブームがおこりソリッドギターから主軸をセミアコタイプに。 同年、富士弦楽器はマツモク近くの平田に新工場を建設。

1968年、フォークギターの生産と輸出もはじまる。 同年、富士弦楽器のGrecoの国内販売始まる。

1969年、組立工場と事務所を新築。Epiphoneフォークギター製造はじまる。 労働衛生管理優秀工場として表彰される。

1970年、GSブームの終焉。反戦運動からおこったフォークソングがブームとなり、フォークギターが市場を席巻しマツモクもフォークギター生産が主流となる。
同時期、荒井貿易を中心に日本ギブソンのエージェントを取得、即刻マツモクでのギブソン系コピーモデルは生産中止となる。
同じく1970年よりアメリカ本国で生産中止したEpiphoneのエレキギターの本格的に生産はじまる。以降カジノ、リビエラ、シェラトン、ウィルシャーなど。全てのモデルを生産することになる。
ギターの直接貿易を開始。ギター部門の売り上げが46%となる。

1971年、マツモク工業株式会社に社名変更。 ミシンキャビネット生産減少、ギター部門売り上げ52%に。

1970年代に入り海外のロックアーティストが次々と来日。またヤマハのポプコン、神田商会のA-Rockなどのイベントにより国内の若者のロックシーンが盛り上がったことによりコピーギターの需要が高まる。
再びエレキギターの需要が増え、富士弦楽器(神田商会)のグレコのレスポール(EGモデル)の製造を委託される。
最初期EG
(大和氏(1972年入社、組立、企画、後にアリアの企画)によると、グレコが急に売れ始めたとき、最初だけは神田商会の指示でグレコのセットネックとかアーチのつくギターはマツモクでやっていたそうだ。富士弦楽器も製造ラインのキャパシティがいっぱいで、生産ラインが3本あるマツモクのほうが急増した需要にこたえる生産能力があったからだったとのこと)
さらに1970年代半ばはグレコのフェンダー系コピーの製造委託も盛んになる(デタッチャブル系のモデルにはジョイントプレートにMATSUMOKUと入る)
1970年代は、海外ブランドのエレキギター生産も盛んになる。

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(マツモクで生産したブランドについて)Matsumoku made guitar brands.

Conrad、Unicode、Ventura、Lyle、Shaftesbury、Westbury、Epiphone、Greco、Electra、Vantage、Vox、Hondo2、Skylark、Crestwood、Alvarez Yairi、ELK、Aria、Aria Diamond、Arai Diamond 、Ariapro2、Westminster、Azusa、
Fantom、Frister、Pearl、Franpton、Fernandes etc. 廃業するまでに30以上のブランドを製造。

輸出関係ではSt. Louis music、Westbury、FCN、Mayer、ENGRO、Active Musicとの取引が最後まで残った。
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1972年、フォークギターを中心にギター売り上げが70%になる。 第2次エレキブームが始まる。

1973年、Victorの電子オルガン(ビクトロン)の製造始まる。同年最高売上額26億円を達成。

1974年、 Epiphoneブランドエレキギターの注文がピークに。自社ブランドのフォークギター(Westone)始まる。開発にはエルクの斉藤任弘氏からアドバイスを受け製造。販売者は神田商会で主に丸井を中心に販売された。 ギター売り上げ74%に。
グレコとウエストン一緒のカタログ


1975年には荒井貿易との関係がさらに強くなり、マツモクを代表するブランドとなるAriaPro2の製造が始まりコピーモデルで第2次エレキブームを追随。マツモク(荒井貿易)のアリアプロ2、富士弦楽器(神田商会)のグレコとの2大ブランドが日本国内のギター業界を牽引していった。 神田商会とはフォークギターのWestoneを日本国内向けに立ち上げる。神田商会とはさらにエレキギターのエントリーモデルのブランドWestminsterを立ち上げる。
Epiphone注文が激減。 マツモクWestone主催I Love Countryコンサート開催。
1975年AriaProUカタログ Vol.1






その他国内OEMブランドカタログ








1976年、エレキギターの輸出が好調に。ギター売り上げ88%に。

1977年には、現在も名器として名高いPE-1500が生まれる。この芸術的で革新的なデザインは林信秋氏が一人でデザイン、設計、製作までを行った、世界に通用するオリジナルデザインのギターだった。 しかし林氏は、これまで行ってきたコピーモデルを作ることへの憤りとオリジナルで勝負したいという思いから同年退社。独立する。(PEのデザイン使用権は有する)

伝説の名機 PE-1500 量産化ははマツモクの技術力無くしてはできないものだった。


当時の市場において他に類を見ないクラシカルさとモダンを融合、洗練されたデザインを纏っていたPE-1500は、製造コストも実際にはもっとかかっていたが、定価は当時のソリッドでは最高クラスの15万円(本体\135,000ケース\15,000)という設定で、ARIAの企画営業サイドは、拡販のためにスペックを下げたバリエーション・モデルのPE-1000、PE-800、PE-600を投入。話題づくりのために木曽の工房で漆塗り仕上げを施したPE-1000Uも発売。


PE-1000Uは当時製造部長だった古家氏の出身地の奈良井の漆器工房にて塗装された。
蒔絵を施したNAMMショウ・モデルなども話題づくりのために製作された。後年の金の蒔絵モデル以前に黒の蒔絵のものがあったそうだ。 




マツモク以外のギターメーカー各社も当時新進気鋭のアレンビックやB.C.Richをイメージしたオリジナルデザインのスルーネック・モデルがラインナップされたのが1977年からだったが、これは1977年にギブソン社から富士弦楽器が訴訟を受けたとされる年でもあり、各社早急にコピーモデルからの脱却が迫られていたからだと推測される。
PEは国内では当時若手人気のアーティスト、松原正樹や渡辺香津美へのギター提供とフォローをはじめ認知度がアップ。人気を得る。
因みに、PE1500を一番最初に渡したギタリストはBOWWOWの山本恭司氏だったとのことである(大和氏談)

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(当時BOWWOWだった山本恭司氏にそのPE1500のことをお聞きしてみました)

アリアのPE、はい確かに持っていました。
レコーディングでは使ってはいませんが、それを使って、海外向けの何かのCM撮影をしたのを覚えています。
残念ながらそのギターは今手元にはありません。
ロンドンに住んでいた頃に、日本の事務所の倉庫からギター、アンプ、エフェクターを何台か盗まれてしまったことがあって、おそらくその時の一本ではないかと思います。
家具調の仕上げがとても丁寧で美しく、触れているだけで気持ちのいいサラッとした感触も覚えています。

左下がそのPE1500 山本恭司氏提供

そういえば、僕が高1の頃に最初に買った新品のエレキギターはアリアのレスポール。
その後に買ったグレコのストラトは、ネックかどこかにマツモクとしっかり書いてあった記憶があります。
グレコのストラトは、1973年くらいに買ったはず。
それを自分で改造して、世界初のHSHストラトにしたのは僕です(笑)
最初期グレコ(グネコ)のストラト。EGのP.U.が搭載されている。
https://m.youtube.com/watch?v=dLbM9pj4w3k
この写真はHSHですが、音はまだ改造前、もしかしたらリアだけをハムにした時くらいかもです。
                                                       Kyoji

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1978年、円高(1ドル175円)により輸出向け売上ダウン。 
マツモクとアリアの企画によってデザインされた、同じく名器のSB-1000や、SHなどの個性的なモデルが誕生。
当時アメリカ、ヨーロッパにも販売されたPE、SBの販売価格はPEが$1500前後、SB$1200だった。ギブソンのレスポールが$1000程度、ベースで$1000を超えるのはアレンビックくらいだったという。
海外向けPE(AR170)
保証書

1979年、不景気と円高の憂き目に遭いさらにギターの売上が大幅にダウンする。すでにギター生産の割合が90%を超えていたために苦戦。 収益改善多角化のため仏壇の製造始める。 
ギターではさらなるAriaPro2オリジナルモデルが登場し注目を集める(1979〜1981にかけてRS、TS、CS、NK、STなど)


1979年 AriaProUカタログVol.11より

TSは手に入りやすい価格帯で高級機譲りの凝った仕様で大ヒットした。その他各モデルの上位機種にはディマジオが搭載され、ディマジオの販売にも一役買った。
CS350は仕事が無かった特の苦肉の策で出した低価格帯のオリジナルモデルで景気を反映してか飛ぶように売れた。後にアーチドトップのCS400に進化。

1980年代に入り東海楽器が口火を切ったリアルコピー競争が熾烈となる。アリアプロ2もコピー路線のモデルが一時的に復活。ディストリビューターの荒井貿易の利を生かし、低価格帯から惜しげもなくディマジオ・ピックアップが搭載されたDimarzio Powerdシリーズが大ヒット。 オリジナルモデルはPEはPE-Rに、RSはRS-Xに、SBはSB-Rにモデルチェンジとなり、Uシリーズなど追加される。




1980年ディマジオ・パワード・シリーズなど 


一方、エレキギターのオリジナルブランド ウエストンを開発し世界に販売を延ばしていく。国内にも販売。販路開拓などが実り業績回復。


1981年、OEM路線からの脱却を図る。 フランクフルト・メッセでホテルの一室で自社ブランドWestoneをバイヤーにお披露目。同年のエレキギター生産数は月産6000本。

1980年代初頭、神田商会の小嶋社長がマツモクにフェンダージャパンの製造申し入れに来たが、マツモクは荒井貿易とギブソンの縁もあるためそれを受ける事はなかった。
その後も富士弦楽器と協力して、新しいものを作る交流会が開かれたが、富士弦楽器はフェンダー、マツモクはギブソンを担いでいたこともあり実現することは無かったそうである。

アリア、マツモクではアーティストとの連携も盛んに行われ、AriaPro2のエンドーサーはジャック・ブルース、ウィル・リー、ニール・ショーン、マーカス・ミラー、宇崎竜堂、ジェリー・コット、マイケル・シェンカー、イングヴェイ・マルムスティーン、アースシェイカーなどがカタログなどに登場。海外ではWestoneのエンドーサーとして、リック・デリンジャー、ジョン・ボンジョビ、トレバー・レビン、ブルー・プレイリー・リーグなどがいた。

1982年 WestoneはFCN社、BMI社、Mayer、St. Louis music、MUSIC ENGRO、Active Musicなど ヨーロッパへの拡販進む。代理店は11カ国となる。

1983年 フランクフルト・メッセにWestoneのブースを初出展。
12月より主軸のアリアプロ2の他にフェルナンデスの生産を一手に引き受け(その前はカワイで生産)後のマツモク終盤までにはフェルナンデスを国内シェアトップに押し上げたが、アリアプロ2が衰退してしまう。 荒井貿易とは険悪な関係になるも製造は続けられた。
同時期HR/HMの人気もありシャーベル/ジャクソンが売れており、ウェストーンに奇抜な変形モデルが次々投入される。これらは大和氏が海外バイヤーのマーケットレポートから、NAMM、Frankfurtショー等のトレンドをみて工場へ持ち帰り、デザイン設計をした。USA, ST.LOUIS MUISC のMr, Tom Presly 部長と一緒に開発。(Westoneの変形は当時『WAY OUT DESIGN GUITAR』と呼ばれていた)

1983年、1970年代末からの不景気と円高により、多角化路線を模索した仏壇の製造が取引先の倒産で約2億円の損害を受けてしまう。

1984年 再建を図るため工場敷地約7260uを松本市に4億3700万円で売却。役員5人更迭、自主退職で50人の人員削減。 

1985年 10月以降大幅な体質改善を実施。最新設備を導入(静電塗装機)年間32000本以上を記録。

1986 2月さらに設備投資。自動研磨機、自動指板研磨機、6軸NCルーターを導入し効率化を図る。

↑1986年頃の全景                   組み立てライン

レベルサンダー                    自動指板面サンダー

NCルーター                        静電塗装                                                                  
ヨーロッパは好調だったものの円高で北米向け輸出激減。国内向け生産を増やし輸出と国内で50:50の比率となる。AriaPro2、Westone、Fernandesで月7500本を製造。しかし円高(1ドル170円割れ)の影響は大きく輸出向けの収益が前年比50%まで悪化しついに7月に赤字に転落。
すでにアメリカ、カナダ輸出向けの比率が6割を超えていたため、このまま続けては倒産すると判断した経営陣は解散を決定。取引先には1年以上前からアナウンスを開始したため駆け込み注文が入り工場はフル生産の状態に。


そして約10億円の負債と従業員への退職金を捻出するために、工場敷地を松本市に買い取ってもらう交渉の末、1987年2月マツモクは解散となった。
現在、工場跡地は南部公園として市民の憩いの場となっている。









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大和氏インタビュー(マツモク1972〜1987 / 荒井貿易1987〜1995)

松本木工株式会社(マツモク)に入社、組立工程を経た後、企画やアーティスト・リレーションに関わり、数々の名機を生み出してきたキーマンである大和氏にその経歴や関わってきたモデル、人々、マツモクの思い出など取材させていただきました。

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クエスト インターナショナル 代表取締役 大和俊夫氏
QUEST INTERNATIONAL LTD
WWW.quest-md.com

プロフィール
1972〜1987 マツモク工業株式会社入社 企画。デザイン、製作
1987〜1995 荒井貿易株式会社入社 企画 オリジナルモデル開発、AP立ち上げ、マーケティング、アーティスト・リレーション
1995 クエスト インターナショナル設立(2004〜Sugi guitars初期の販売支援)

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大和: 私はマツモクを辞めてから荒井貿易へ行ってしまってアリアの仕事をしていたから松本を30年くらい離れていました。最初は東京で仕事をしていたので地元のことが分からなくなってしまいました。戻ってから10年目、自分の会社(クエスト インターナショナル)で21年目です。(2017.12月現在)


私がマツモクに入社したときってのは私は実はサッカーで入った。要はマツモクに入った理由はサッカー部があったから。
そうしたらミシンもやっていたっていうだけで。本当はエプソンに内定していて親父に散々怒られたけどね(笑)
入ったら楽器会社だったと。私が入った時が400何人かいたと思うんだけどミシン半分、楽器半分でしょ。ちょうど林さんが技術の係長か何かだった。原山さんはもう独立してネック専門の外注になってた。
当時からの生き残っている人といえばヤマさん。マツモクにはいなかったけど、松本楽器製造から分かれていった人たちがいるわけ。要は外注だ。フジゲンとマツモクがあるから当然外注が発達するというわけで。いろんな人たちと付き合っていて。
そんな中で2年目かな?1年目は修行で現場に出されるじゃん。ラインの現場の管理しろと言われて生産管理やるようになって、それで外注とかいろいろ覚えていったんだけど。
会社案内




(在籍中にマツモクで製造したギターブランドについて)

アコースティックギター
アルバレズ・ヤイリ(Alvarez YAIRI)は、マツモクとセントルイスミュージックが組んで立ち上げたブランド。
その時私は2年間セントルイスに行って住めと言われた。たまたま就労ビザの関係ですぐ帰ってきたけど。
矢入さんとのアルバレズヤイリをもっと仕掛けようと言う動きがあって、その時にSヤイリと一夫ヤイリの問題がおこりだしてて、Sヤイリさんは韓国へ行ってサミックとくっついたり、いろいろ兄弟トラブルが起こってね。Sヤイリさんとは後にARIAの仕事で韓国のサミックで出会った。
当時セントルイスミュージック(St. Louis Music Supply)っていうのは全米でもトップクラスの会社ですからね。会社まるごと売っちゃったけどね。
その時のセントルイスミュージックっていうのは、アコースティックでは全米ではマーチンに次ぐくらいの存在で、アルバレズヤイリプロジェクトっていうのが動いていた。マツモクとセントルイスミュージックとヤイリと。それはけっこう壮大なプロジェクトだった。当然アルバレズで製造もしたよ。日本の市場には出ていないんじゃないかな。輸出だったから。国内はヤイリブランドだけでやるって分けてたんじゃないですかね。(国内向けカタログがあるので国内販売もあったと思われる)マツモクでは毎月40フィートのコンテナで輸出するくらい作ってた。
1981年の製造の様子

矢入一夫さんはもう死んじゃったもんでね。その話はつながらないけど、今のヤイリの専用バッグは私が供給してるんで、昔ヤイリの仕事の話があったぞ、親父からって言うと若社長がびっくりしてた。 セントルイスが日本のヤイリに目を付けたんだね。いいものをつくるとこがあるぞと。
70年代はモーリスもよかったし、ヤマハもよかったし、カワイもよかったし。カスガ、タカミネはかなり後半ですからね。

ウエストンは、神田商会にフォークギターのいいのがなかったわけ。たぶん武井部長と斉藤任弘さんのつながりだと思うんだけど、じゃあウエストンを神田商会で売るということがジャッジされた。
そういえば林さんが作ったフォークギターでAzusaってあった。あのヘッドがPEの原型だと思う。


ウエストンを始めたときはもうドレッドノートのブームが来てたからね。そういうコピーじゃなきゃ売れなかった。ただスーパーヒールレスネックっていって、ネックジョイント構造を特殊に作ってウリにしていた。当時のギターのネックって途中で折れ曲がるくらい作りが悪かった。それをふせぐための構造だって。たぶん林さんが考えたんじゃない? 丸井で売ったなんて今思えば笑い話だよ。丸井の正面玄関の表でイベントやるから来いって。斉藤さんが全部段取りして。


エレキギター
70年代初めはコンラッド(Conrad)、ウエストバリー(Westbarry)は輸出がほとんどメイン。国内はコピーしかやってなかった。フジゲンもマツモクもね。要はコピー時代。今、中国をばかにしてるけど、みんなコピーのギター作ってた。
コンラッド1972


エレクトラ(Electra)はセントルイスミュージックのブランド


ウエストン(Westone)なんかはイギリスでナンバーワン・シェア獲ったことがあるから、いまだにオタク族が、人が忙しい時間にメッセンジャー送ってくる(笑) ウエストンは一回席巻したからね。日本市場は神田商会が売るのに絡んだね。いろいろ変なものやりましたよ。

そこにもウエストンあるけど、それはイエスのトレバー・ラビン(Trevor Rabin)が使ってたやつ。(X350MAタイプ)
1986広告
トレバー・ラビン本人のギター

Westone の 変形は当時 『WAY OUT DESIGN GUITAR』と呼ばれてUSA, ST-LOUIS MUISC のMr, Tom Presly 部長と開発していたものです。
基本は海外バイヤーのマーケットレポートから、NAMM、Frankfurtショー等のトレンドをみて工場へ持ち帰り、デザイン設計をしました。確かに・・・今見ると・・・いかれてる!
NAMMショウでは写真を撮るなって怒られたもんだ。当時は俺たちはアイデアを盗んでくるわけじゃんか。でも隠し撮りしてきた。いまでこそこういう時代だけど、究極はサンプル買って持って帰ってきた。
ショウで出すときは安いけどね。ハリウッド行って同じものがあれば買ってきた。そりゃ何十万円さ。それを切ったりしてコピーを作ってたわけだ。ただ開発費は商社がもってくれたでしょ。











写真の中のアリアの企画部長 鈴木さんがキーパーソンですよ。業界去っちゃいましたけどね。
この方がリーダーの時代にAria Pro2のオリジナルがマツモクと組んで沢山開発されていく。それの窓口を大和はしていた。よって将来ARIAの企画をまかされた時にスムースに復活を遂げることができた。

R&D鈴木氏と                  MTI ニューヨーク社長

FCN UKチーム                フランクフルト・メッセにて

フランスのスタッフとVenturesメル氏

(エピフォン)Epiphone
マツモクも要はコピー作ったでしょ? ある日、荒井史郎さんが突然日本ギブソンのエージェントとったわけだ。日本ギブソンの第一号。もう翌日からコピー禁止(笑)コピーダメ。それまではアリアダイアモンドだとかガルソンだとかワケのわからないブランド作って死ぬほどコピーを作ってたわけ。Ariapro2だってコピーがたくさんあった。だけどオリジナルに切り替えようって指示が出て。
当時の日本の市場ってのは、オリジナルらしいのはグヤとかエルクとかああいうものしかなかったのね。それも当然モズライトの流れがあった。である日突然オリジナル作れって指示が出てその流れに乗っかって、アメリカから来るオーダーってのは全部オリジナルなわけだ。
今でこそエピフォンなんて言ってるけど、ビンテージ・エピフォンをマツモクで作ってた。誰も信じないけど、Casio、SheratonだRivieraだWilshireだ、全部あの当時マツモクから出て行ったわけですよ。それが初代ギブソン社なのね。
当時、日本製はフェンダー。ギブソンから楽器じゃないってみられていた時代だから本当にバカにされてた。古家さんが覚えていると思うけど、「松本の下駄箱屋が何言ってる」って言われたからね(笑)
ギブソン会社4回身売りしたでしょ。初代のノーリンミュージックというのが親会社でシアトルに倉庫があって、まだ日本のギターはチンドン屋なもんだから、半年に6人ずつ交代セットでメンテナンスに行った。
エピフォン・ジェネシスもやってる。何しろ変なものいっぱいやった。


そういう時代にギブソン社がマツモクに来ていたって(私は)ガキだったからわからないじゃん。「エピフォンってブランドがなにか知らんけど沢山流れてる」くらいなもの。一応、生産管理だからモデル名とスペック覚えてなきゃ。でもそんなに有名なブランドだって知らんもん。そういった人がミーティングするとボロクソ言われる。こんなのギターじゃねえって。
ミーティングってのはバイヤーが工場に商売の買い付けにくること。それはNAMMショウの周期の前後。NAMMでまずミーティングする、あとまた夏頃来てサンプル仕込んで冬用のヤツを注文にくる。それが大体バイヤーとの周期。
そうしてくると必ずマツモク、フジゲンと回っていく。で、来る前には必ず名古屋、静岡を回ってるんだよ。みんな全部天秤にかけられてた。それ知らずに一生懸命真面目に答えてるわけだ。

当時、楽器屋がNAMM行って買ってきたりしてさ。それを作ってくれって持ってきてコピーしたことがいっぱいある。当時は楽器屋1軒でも力があれば30本60本作ったから。今そんなことしたらすぐ在庫になっちゃう。
アレンビックのコピーは、あれはイケベのオリジナルだったんじゃないかな?あれは難しいことばっかりだった。部品から何から。当時はアレンビックはオリジナル部品だった。それを再現するって大変なことだった。ブリッジとテイルピースもブラスの切削で作ったなあ。パラEQのハシリりだったね。
スルーネックはB.C.Richはスルーだけど貼ったからね。タテじゃなくて。貼ってボディと同じ厚みにしてヒールを削った分が出てた。アレンビックはタテだったの。SBはアレンビックのマネだったからタテ貼りなの。TSは歩留まりのためにコスト下げた。

アリアが始まってからは生産ボリュームがどんどん上がっちゃったもんだから、小さいOEMメーカーは契約切られちゃった。そのなかで残っていたブランドはセントルイスミュージック(St. Louis music)とかウエストバリー(Westbury)とかユニコード(Unicode)って会社。ハックさんって有名な方なんだけどね。そこが大きなバイヤー。ユニコードは最終的に絞ったね。とにかくすごかった。当時、ギター生産量としてはフジゲンが下請けになるサイズだったから。
エレクトラ(Electra)はアメリカからきてマツモクとフジゲンに作らせた。たぶんマツモクからフジゲンに依頼したものではないね。
そこにアルバレズヤイリがでてくるわけだ。もう死んじゃったけどジーン・コーンブラムってすごいやり手の社長がいてね。

この当時アメリカのアンテナはセントルイスミュージックなの。それとカナダのバンテージ(Vantage)は今うんと大きくなったJAM INDUSTRYってとこ。マーティン・ゴールデン社長。


ドイツはマイヤー(Mayer)、フランスがミュージックエングロ(Music Engro)要は当時のエリート会社。一流の商社。そこと組んでやるわけね。
ウエストンでイギリスのシェアがナンバーワンになったときはファンに大歓迎してもらって、フランコ・トメスナーとイギリスのサッカーのマンチェスターユナイテッドまで行って。


(ピックアップや金属パーツについて)
ピックアップは海外から問い合わせがあると、日伸音波、啓陽、トキワの3つのどっかだろうって話になる。
(最初は啓陽)どこからも買っていたけど何年だったか、大コストダウン命令が出てコスト削減でゴトーに注文することが増えた。
日伸音波さんのも当然使ってたけどあの頃マツモクは啓陽が一番多かったんじゃないかな。
正確に言うと、アルニコからフェライトマグネットが出てきてフェライトバーでコストダウンが起こったのが業界の実情だね。しかもヘビメタの時代だからいきなり歪んで弾くから粒立ちなんてどうでもいいみたいな時代だったからそれで通用したんだね。
金属パーツは、信越鋲螺、花岡の時代で、そのあとがゴトーだった。

(ギター以外は?)
海外のお客からギターからエフェクター、アンプまでって話が来るの、でかいブランドってね。
だけどマツモクは手を出さなかった。VantageのオーナーだったのはJAM・インダストリーっていうカナダ一の巨大カンパニーになってるけど、当時は小さな会社だった。彼らはアイテムごとに分けていったの。でも時代は一つのブランドを全部作りたいっていう時代だった。



林さんの作ったPEってのは、当時PE1500からスタートして、要はヘビメタの時代で、重くて売るにもイメージアイテムであまり売れない。極端に言うとオリジナル第一号のマツモクの商品のそれが最初で後がないという状態。あとはもうアリアとのコラボレーション企画なんですよね。アリアに鈴木さんって企画室長がいて、その人と私は企画窓口でそこからPEの販売をもっと売れるようにするにはどうしようということに変わっていくんですよ。そこに絡んでくるのが松原正樹や渡辺香津美とか。改造を加えながらもっとレスポールタイプにしようだとかニールショーンのシンセ付にしようだとかどんどん増えていってるわけ。日本なんかだとアースシェイカーのシャラだとかかなり貢献しているわね、当時。そんなようなことを私は企画窓口でARIAへ出向社員やりながら、その間にマツモク本体が何考えていたかというと輸出だから自分で直販することを考えていこうということで、まあ当時の名門の会社と付き合っていたんでウエストンの開発を始めた。時代は経済の波に乗って直貿が起こり始めたわけですね。社内で上層部から指針があり。アメリカ資本だしね。

(PE1500を最初に使ったギタリスト)
真っ先に1500を使ったのはBOWWOWの山本恭司だよ。確か1号機を使っているんじゃないかな。誰がどうやってコネクションで渡したかわからんけど。PE1500がクソ重くて誰も使ってくれない時代(笑)
それは記憶にあるね。探せばどっかにアリアが宣伝に使ってると思うよ。松原や香津美が使い出したのは俺が出向に行った時だからすごい後のことだからね。

(松原正樹とPE)
松原正樹にPEを渡したのは私です。私はマツモクの社員でいるときにアリアに出向していた時期があるの。マツモクの社員として。その時何をやったかと言うと松原正樹とか渡辺香津美とかミュージシャンのケアの仕事をしていた。ウエストンを始める前に会社がそういうことを計画的にさせたんだね。勉強してこいってことでね。
(当時、大阪には営業の研修で1名、名古屋にはリペアの研修で1名、東京にリペアとミュージシャンとのリレーションで大和氏が出向になった)

レコードのこのギターまだあるよ松原の家に。

2016年のパラシュートのラストライブのステージで全部使った。
このレコードのときに俺はマツモクの社員だけど松原や渡辺香津美についてた。忙しかった。売れっ子だからさ。ヒットソング何万曲ってレコーディングしてるからね。スタジオに夜ついてなきゃいけない。松さんは羽振りがいいから飲みに出て行っちゃうじゃん。俺はタクシー代もないっていうさ。同い年なのにさ(笑) 1979年のファーストアルバムだ。

(PEモデルについて)
年数が前後するけど、結局、林さんが作ったPEを土台に売れるようにしていくのがアリアとマツモクの企画。そこから動き出すわけですよ。
PE1500を作ったのは確かに林さん、すぐ辞められたみたいだけど。そこから先の販売となると工場とは別なんでね。林さんがPEの原型を作ったのは本当にすごいことですよ。あのひと武蔵美出てるんだよね。アートの世界のひと。
PEのデザインの起源は間違いなく林さん。投資して売れるようにしたのはアリア。

PE1500って一個一個細かいパテントとってあるんですよ。会社的にはアリアに譲渡してるんだけど。
(PE1500は最初、設計や試作に携わっていた林信秋氏がWestoneブランド用に設計・デザインしたマツモクオリジナルのギターだった。後にパテントはマツモクから荒井貿易に譲渡されたらしい)
PE-1500試作品 WestoneとAriaProUのロゴが併記

今でこそ15万円のギターといっても珍しくないが、当時はほとんど前例がなく、異端児扱いだったそうだ。コストはもっとかかっていたがブランドを確立する広告塔にするために儲けは度外視したそうである。
日本の他、世界にも販売したが数年は苦戦を強いられたが、松原正樹や、さらに渡辺香津美とのエンドースを境に認知度が向上。価格や仕様のバリエーションを広げることで人気が向上していった。

当時マツモクは生産ライン3本持ってたでしょ。アコースティック専用ラインとエレキのライン2本あって、1日300本くらい作るわけ。 PEはラインに乗っけて作れる商品じゃなかったから後々にハンドメイドラインが作られるの。そういう組み立てとか面倒な手間のかかるライン。そういうことをやってる時代がある。じゃなきゃ作れなかった。一番古いロゴが入っているってことはそういうことだね。そうでないギターはブザーが鳴って後工程に流れてた。安い量産品はね。

入社当時は新人なんかブザーが鳴ってもネジ止めが終わってないくらいその時は作ってた。今じゃ信じられないけどさ。サッカーなかったら辞めてたわな。どこに配属されるかは、たまたま俺は組み立てだったけど塗装とか機械の方に行く人もいるし。


(ピックアップやパーツについて)
ピックアップは海外から問い合わせがあると、日伸音波、啓陽、トキワの3つのどっかだろうって話になる。
(最初は啓陽)どこからも買っていたけど何年だったか、大コストダウン命令が出てコスト削減でゴトーに注文することが増えた。
日伸音波さんのも当然使ってたけどあの頃マツモクは啓陽が一番多かったんじゃないかな。
正確に言うと、アルニコからフェライトマグネットが出てきてフェライトバーでコストダウンが起こったのが業界の実情だね。しかもヘビメタの時代だからいきなり歪んで弾くから粒立ちなんてどうでもいいみたいな時代だったからそれで通用したんだね。
金属パーツは、信越鋲螺、花岡の時代で、そのあとがゴトーだった。

(パテントとブリッジ、ノブ)
PEのパテントなんだけど。今は荒井貿易が持ってるけどね。売ってない限り。
ヘッドの名前H/Nobleそれは最初やった。あのブリッジもノーブルって名前ですよ。
今でも私も類似品持ってるけど、パテントに引っかかるとやられちゃうんで。そこを避けてる。これはなんでかっていうとギブソン、フェンダーがコピーを殺すためにヘッドの形とかパテントを押さえたの。70年代の末。で、フェンダーだけが中途半端だったのね。だから日本は割と平気でコピーしてたけど。
トーカイは負けた。フェンダーは。ギブソン系は天神(ヘッド)だけ逃げりゃいいとか富士山だけだったらいいとか、未だにまだ曖昧なんだけど。
それでマツモクは輸出の比率が高かったから、こういうことを勉強させられるわけだ。ブランドをちゃんとすべて保護しなさいと。PEのデザインパテントってこの時代取るのはすごく難しかったと思う。とんでもない金がかかってると思う。なかなかおりない。

ノブは林商会、切削でそういう細かいことをやるメーカーがあった。当時まだGOTOHが糸巻きだけでテールピースに手を出してなかった。

PE1000はアリアが売れる価格ゾーンに下げなきゃだめだと言ってPE1500をスペックダウンして作ったけど、今度はブリッジが問題で。やっぱり世の中じゃまだウケねえと。 
作ったのは信越鋲螺でね。細かいことを言うと、最初、駒の精度が出なくてボコボコでみんなビレちゃうわけ、デコボコで。なんだかんだやって、結局レスポールタイプにしなきゃ受け入れられんと。サンドイッチボディにしてストップテイルピースにしていったのが私とアリアの企画の仕事だった。要するに販売用にのっけていった。

(PE渡辺香津美モデル)
これは俺がほとんど企画をアリアの窓口で持ち帰ってやった。香津美はこれよりもRSのほうが好きだったね。PEの開発過程で一番色んな事言って首を突っ込んだのは香津美のほうだからね。松原は仲良かったけどスタジオ系で売れっ子だった。だからあんまり開発に首は突っ込んでいなかったけど。PE-R80は気に入って今でも手放さずに自分の家にあるけどね。


(PEニールショーンモデル)
ニールショーンのシンセとかああいうのは話題性を創るためにローランドと組んで。中身はGRそのまんま。当時はね。浜松のWOWというショップと組んで作ったギター。 
(ジャーニーのギタリスト、ニールショーンモデル。シンセ・ユニットは富士ローランドからGRのキットをそのまま仕入れて内蔵された)


ローランドは私が独立して10年くらいはコラボして開発やってましたよ。工場無くなっちゃったね。まだローランドの上の人たちとは繋がってる。ギターシンセは難しいんですよ。ここにも1個プロトあるけど。シンセ用の弾き方をしないと。もちろん今の機械は当時のほどじゃないけど、最初のGR9は本当に遅れた。 メセニーはまだやってるね。シンセは本当にみんな泣いてる。Fat STRATのコラボで単価が下がっちゃったんでシンセの価値が下がっちゃった。
そこにLINE6のギターも出てきて。世の中シミュレーターが出ちゃったから、シンセギター自身の存在が危ぶまれた。あれはローランド自身も認めちゃいけない部分だったんだろうけど。梯さんが死ぬまで怒っていたと言うね。
梯一族、壇社長になって、ここの血筋で生きているのはBOSSの池上社長くらいかな。あとはみんな代わっちゃったかなあ。その人たちはフジゲンさんとも仲がいいし我々とも仲が良かった。

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GR搭載PE 通称ニールショーン・モデルについて)

 

20222月、ある方から情報提供がありました。

それはGR搭載PEニールショーン・モデルについての大和氏のお話に出た、当時の雑誌広告のショップWAWの経営者だった渡邊氏。

貴重な開発裏話と写真をいただけましたので追記しておきたいと思います。

当時から40年近く経過した今、このように関係者の方から関わったギターについての情報がいただけるとはありがたいことです。ギターマニア冥利に尽きます。

わかりやすいご説明なので原文で掲載いたします。

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 浜松市でWAWを経営していた渡邊と申します。
記事中のニールショーモデルで懐かしい自店の広告を目にして嬉しく思っております。
あのギターを作った最初の切っ掛けは、ニールがGRギターとフロイド搭載のレスポールを持ち替えて引いていたので、PEで両方搭載すれば面白いという発想からでした。

 最初はPE-R80を改造して、アルバムのエスケープを出した時の名古屋公演(1981728日名古屋市公会堂)でニールに試して貰い、意見を貰いました。
フロイドローズを装着するのにはギターの裏のキャビティを大きくザグる事になり、PEの生音がソリッドでは無くなり、どちらかと言うとアコースティック音に近い音になるので、余り好きな音では有りませんでしたね。

 結局、ご存知のように、当時アリアがケーラーの代理店になったのか、ケーラーを搭載する事になったのですが、音的にはそちらの方がソリッドらしさは残せました。
ただナットはケーラーではチューニングが狂い易いのでフロイドのロックナットで決まったようです。

 木工完成状態で受取り、GRの組込み、仕上げを私がやったのですが、GR用のデバイデッドPUのベースプレートのキャビティは、ほんの少し後ろにしてもらった方が理想だと思いました。
大きくチョーキングすると磁界から弦が外れてしまう恐れが有ったからですが…。
でも、そのまま使っていたので問題は無かったようですね。

 ただ、初日の名古屋公演の日に、米国でGR基盤からの配線を誤配線したのか、ダイレクト音だか、シンセ音だかがアウトプットされないと言って、リハ前に直して欲しいと言う依頼が有って急遽名古屋まで行って直しましたが、グチャグチャにいじられていたらアウトなので、一応基盤も持参して行きましたが、それ程の誤配線では無かったので安心しました。リハ前には修理完了し、付録ですがニールのセットで試し弾きをさせて貰いました。

 私も引退して楽器業界とは縁遠くなりましたが、今では良い思い出となっています。


また懐かしい写真を拝見できて昔を思い出しました。
ゴールドのPE/GRNAMMでニールに渡す予定で企画の鈴木さんの要請で作ったやつですね。
ジャパンビンテージ誌は全く読んでいなかったのでこんな記事が有ったとは知りませんでした。ありがとうございます。

 あと、渡辺香津美氏には黒のボディに赤のバインディングを入れたPE/GR、松原正樹氏にはパールホワイトのフラットバックのPE/GRが行ったと思います。

ジャパンビンテージ誌に掲載されているPEニールショーンモデルの同型はヘッドにNSのデカールが無いので、アリアでモディファイした物かも知れません。
コントロールキャビティに導電塗料が塗られていたら、デカールを貼らずにうちがやったやつかも知れません。

(↑これについてはJV誌掲載のカスタムモデルは1984年に限定で市販された(100本以下)カスタムモデルでGRシステムは搭載されていない。そっくりな仕様ではあっても正式なシグネチャーモデルではない)


当時で25万円という高価格なギターでしたが、トップを貼りトラにしなかったら、まだ高い値段になっていたでしょう。

WAW MUSIC製のギターシンセサイザーはPE-CST-GR \250,000GR-700 \260,000の組み合わせだった)

スティーブスミスがDWのフットペダルを使用していましたが、そのペダルを踏んでみて当時の国産ペダルとの違いを見つけられたのはもう1つの土産になりました。
 帰って、直ぐに当時のチェーンペダルのカムコのペダルを改良して試作をしてみましたが結果は思った通りで、余分な踏力を必要としないペダルになりました。
これもドラムマガジンで通販をしましたが、他店とは差別化ができたのは強みでした。
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昔の写真をひっくり返して当時の写真を探しましたら、NAMMへ持って行く予定でゴールドの色違いのブラックも作りましたが、その写真が出てきました。
これを鈴木さんがNAMMへ持って行ったかどうかは定かでは有りません。

香津美さんの物は、赤のバインディングがヘッドにも廻っていて、ヘッドはPE香津美モデル同様に掘り込みになっています。

松原正樹さんとの打ち合わせでは、今(剛)さんもいらっしゃいました。
松原モデルの写真も在りましたが、フラットバックではなく、カーブドバックでした。

 

私が知る限るでは、ビデオ発売されたフロンティアーズの全米ツァーとYOUTUBEで見られる日本公演の武道館ライブしか知りません。
因みに、Send her my love Still they ride Open arms Fathfully Who's crying nowの5曲がPEで、Rubiconとアンコール局のSeparate ways2曲がROLAND-GRです。
https://youtu.be/pVQlh0GmnXA

渡辺香津美氏と松原正樹氏が最初のPE-R80を試奏している写真もお送りしておきます。
ニールショーンがエスケイプの頃に試奏した写真も在ったのですが、残念ながら紛失致しました。

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元マツモクの大和氏にも思い出せることをお聞きしてみました。

確かに松正樹原、渡辺香津美のふたりにも作りましたが・・・

 当時のDivided-Pickupの反応が遅いこと、ケーラーのトレモロのチューニングが不安定すぎて・・・・・

等々の理由で現場での使用は皆無でした。

 

当時のARIAの企画室長の鈴木さんが*JESの斎藤社長とLAから持ち込んだ話です。

回路関係のスペシャリストを探せ!で、WAWさんに外注委託した経緯です。

JES斉藤氏:19721988荒井貿易在籍 数多くのアーティストリレーションをした人物

 

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1980年頃のニールショーンといえば、レスポールのイメージ(Les Paul Super customとか黒のスタンダードに初期フロイドが搭載されたものも使っていましたね。


JAPAN VINATGE誌のJES斉藤氏へのインタビュー記事によると1979年の4月のジャーニー初来日でPEを渡して色々試してコメントをもらったとのことなので、3回目の来日でGR搭載モデルが渡されたと思われます。

渡邊氏のお話しからすると1981年のアルバム:エスケープのツアーからPE-GRカスタムモデルを使い始めたようです。

GR搭載PEについては、いくつもの個体、仕様の遍歴があるのでかなりの打ち合わせ、改良があったものと伺えます

これらPEは正式にニールショーンのシグネチャーとして作る話も上がっていたらしいですが、当時のGibson/レスポールの販売不振の状況から荒井貿易側の考えで中止になり、正式なニールショーン・シグネチャーモデルは実現しなかったそうです。

当時、盛んにアリアプロ2ブランドのアーティストリレーションが行われていたのは述べたとおりですが、

松原正樹、渡辺香津美氏がGR搭載機を使っている写真など見たことがなかったのは、チューニングの安定性と反応速度のせいだったんですね。

 

アーティストモデルがどのような方々、背景で造られていたのかが分かる貴重なエピソードを記録することができました。できればこれを製造した時のマツモクのエピソードも聞きたいところですが・・

ご協力いただいた渡邊さん、大和さんには大変感謝申し上げます。

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(PE-25ANNIVERSARY)
アニバーサリーとか全部ARIA企画と僕等の時代。だからMDの松原ファンってのもけっこうアリアのPE持ってたりしてかぶるのね。ルーツしらべて誰がやってたか知ってるんだね。だからPEの修理送ってくる人いるよ平気で。メンテしてくださいとか裏蓋にサインしてくださいとかさ。そんなのどうでもいいじゃんかって(笑)でも彼らにはいいらしいね。


(PE GC-1000)
ジェリーコットとアリアの窓口で話をして、どういうのを付けたい?って話をして、これはB.C.Richのブースターがそのまま入ってる。EAGLEの回路のコピー。 TSはヒットしたからねDimarzioとセットで。その流れがこのとき。


(ダブルネックモデル)
ああ、それはもう話題づくり。間違いなく。でも月に6台くらい作ってるんじゃないかな。
今でも忘れないのが6弦とベースってのがあった。竜童モデルのとRS版があったんだけど、RS版をパラシュートのライブで両方弾かなきゃいけなくなって、ドラムスタンド改造してくくりつけたの覚えてる。今思えば変なもの作らされたよな。でも鮮烈に残っているのはやっぱりPEとSBだよね。外人を含めて楽器としての評価が違った。


(PE-DELUEX KV)
定価12万円。当時ケーラーなんて何万もしたんだもん。このパーツが。で、付けるとチューニングがずっと合わない(笑) 絶対合わない、バネの精度が悪くて。角度がペラペラでさ、PEはカーブドトップなのにケーラーは彫り込んで落としてあったでしょ?あれは無理してるわけさ。合わんもんで。バダスが出たときにベースも同じことやったよね。
1984カタログ

(試作品ショウモデル)
何しろへんなものいっぱいやった。1979NAMMショウのインレイびっしりのRS、SBはたぶん指板だけで10万円とかしてる。指板のこういうのは外注がやってる。最終組み込みは全部俺がもう専門の担当でやってるから。


(コピーモデル)
80年はトーカイが、本物より優れたコピーとか言ってたね。フェルナンデスはザ・リバイバル。グレコはスーパーリアル。アリアはオリジナルでいけって指示だから全部オリジナルだったけどコピーは死ぬほどあったんですよ。

(ディマジオパワードシリーズ)
ディマジオのデュアルサウンドね。ディマジオのエージェントとって。デュアルサウンドとスーパーディストーション、ファットストラトとか。あの頃は輸入品の部品を付ければ売れたもんだから、ディマジオに交渉して使った。

(オリジナルモデル)
アリアの歴史の中で一番数を作ったのはTSかCSのどっちかだと思う。
あれも現実にはコスト競争で厳しくなったのと売れなくなったからコストダウンモデル作って大量生産したってのが実態だよね。
RSゼブラはやった。ゼブラは材料が珍しかったのね。アメリカのショウに行ったときにアレンビックが使ってたんだよね。でゼブラやってみようかって。たぶん100本もやってないでしょう。ゼブラのパンフ作ったことあるよ。あれもアレンビック思想のまんま。軽い音がしてね。ボディウラはトチかなにかじゃないかな?あれ。ゼブラって読むのかジーブラって読むのかわけわからん(笑)
ゼブラは隙間が大きくて工場からブーイングの嵐。割れちゃうしさ。どこのメーカーだったかなあ?NAMMに行ってみてきて面白いなって。マツモクはああいう会社だから材料専門の担当者もいるわけ。
変な夢みたいなこというと本当に手に入れてきちゃう人がいてさ。買い付けしてくる赤羽さんって言って。材料の話は能書き言い始めると1時間くらいハハーって聞いていなきゃいけない(笑)


RSとかのカナディアンアッシュの導管はあんなに黒いのはスミを入れてる。
その辺は塗装の古家氏が詳しいと思う。PEで漆塗装もやったしさ。須山塗装かどっかじゃない? NAMMショウ用に蒔絵シリーズもやった。なんでかというと古家さんが木曽山林高校の出なのね。木曽にそういう仲間がいてさ、なんかジャパネスク路線が欲しいって。ちょうどシャープの万年筆のジャパネスクモデルがあったから。要するにイメージモデル。かなり話題になったよ。
金のモデルより先に、黒いところに蒔絵を描いたのがある。それがNAMMショウモデルの最初。

1977年にSBが出たときは、アリアの牛田ってのと僕がデザイン担当やったな。アレンビック思想なのね。当時アレンビックってボディにテーパーがついてるわけ。スルーネックでパラEQの走りのやつが載ってて。香津美のRS-Xもそこからきてるの。彼が当時アレンビックに狂ってて。YMOの時のもその流れのスペックでRS-X。それをもって世界ツアー。
1977年アレンビックを使用している。

SBは当時のアッシュが重すぎて。今でこそライトアッシュとかなんだって言ってるけど、輸入したのがカナディアンアッシュしかなかった。クソ重くて嫌がるわけ、みんなこんなの弾けるかって。で改良に改良を重ねて。SBが最初言われたのは重い。それからブラスが流行ってた時代で、当時アレンビックの真似したもんだから弦ピッチ16だったのね。ところがアメリカのプレーヤーにほとんどがピッチ18.5じゃないと言われた。ビンテージのジャズベースで覚えてるから弾けないわけ。それがネックになってた。途中で全部変えちゃったけどね。それがウイークポイントだってわかったからね。で型をおこして。そこにはいろいろ歴史がある。
ホワイトスネイクでブレイクした時がちょうどマツモクがつぶれてアライに行ったとき。ニール・マーレイとかルディ・サーゾとか。ルディの時がスティーブ・ヴァイが出てきたときだ。
SBのRSB-800ってのが舞うように売れたのは当時は本人用は向こうでやって、それをプロモーション用にやってた。あれはもう日本製じゃないな、韓国製だ。私がARIA在籍中はPE,SBは日本で作っていたのに、私が辞めてから大量に作って質を落としちゃったでしょ。あの辺から流れが変わっちゃった。今SPGって言ってるけどサミックの全盛時代。


SBは確かにヒットした。スルーネックを作れる工場ってたまたま当時マツモクしかなかった。
ああやってサンドイッチをやってテーパーのボディを作るという。多分フジゲンより作ったのは早い。
スルーネックなんて作ること自体が工場にとってみれば暴挙、なんてこと考えるんだって。材料費のこんな歩留まりの悪いこと考えやがってって。スカーフジョイントなんて無い時代だから木を貼るじゃん。ネック角度のあるのを作るんだもん。そりゃあモメたよね。こんな歩留まりが悪いもんって。
SBはアレンビックのサーキットをコピーして入れたもんだからそれがウケたんだろうね。あのピックアップを作ったのが日伸音波か啓陽のどっちかだよ。
SBもRSもスタートはアレンビックの思想から始まって、RSはどんどん変化してくでしょ?丁度YMOが世界に出たときは違う回路になってたね。ボディもオリジナルからは変わってるの。

1980 SB-1000とオリジナルハードケース。

初代RS
RSは時代の流れでどんどん変化していく。
館長所有




CSなんてモデルあったでしょ?(CS350)あれは仕事がないときに苦肉の策で考え出した安いスペックの安いモデル。死ぬほど売れた、あれは。吹きっぱなしのオープンプアーの始まり。
マツモクはセットネック得意だったんだよ割と。他が嫌がるときに平気でセットネック作ってた。
CS400なんてのもセットネックだったね。当時マツモクには工場の中に機械を作る専門の専門家がいたの。技術部の中にそういうセクションがあって専用機を作っちゃってた。まだNCなんて後だからね。それでコストが合って競争力があったし。鉄だろうが木だろうが専用機を作っちゃう。ヒールレスにしてもそういう削る機械を作っちゃうわけ。NCって量産用の機械であって、別に精度よく沢山作るために生まれた機械じゃん。楽器って本来真逆じゃん。今思うと楽器にはマツモクの方式の方が正しかったかもしれない。そういう人がいたから楽だった。

(U-1000)
これは荒井の鈴木さんの下の牛田ってのがいて、それと曲げろだひっかけろだって言って一緒にやってる。工場にはこんなもの作れるかって怒られるわけじゃん。生産過程で折れちゃうしさ・・
館長所有U-100(1982)アリアオリジナルモデルとともに

いろんなシリーズが増えていったのは、林さんから後が私の仕事でアリアと一緒にやって、竜童さんのアーチン(U-100他)とかあれもアリアで企画したモデル。
デザインはアリアの人間と私で図面描いてやってました。マツモクの中にも専門の図面専門屋がいたし。大体こんなもの作りたいから図面おこせ、と最終スペックにしていって。俺らは手書きの時代ですからね。
ジェイルやアースシェイカーは私がマツモクに戻った頃でアリアのスタッフの原さんが担当してたかな?当時、マツモクとアリアはフェルナンデス導入で険悪だった時期、でもアリアは作成した。松井常松(BOφWY)からまた私が関与しました。

私が一番貢献したのはアリアの仕事だねやっぱり。それともちろんウエストン。
一番思い入れがあるギターはやっぱりPEでしょう。PEを改良して売れるまでにしてから、それが軸になってPE、SBで外タレがどんどん入ってきて。だからちょうどこのカタログのこのときだってWill Leeだ、Neal Schonだ、Marcus Millerじゃん。とんでもない顔ぶれだよ。





(グレコのOEM)
1970年代フジゲンのレスポールもやってたね。コラボしてたからね。
簡単に言うと、(最初は)ボルトオンのストラト系がフジゲン。セットネックとかカーブのつく面倒なのがマツモク。(EG-380〜)簡単に言うとそういう時代のすみわけ。1970年代の最初はそういう住み分けで注文が来てた。面倒なのがマツモク。工場だから神田にやれって言われて。マツモクは最初のスタートだけでしょ。
グレコが大きくなっていくときはフジゲンがメイン。スーパーリアル作ってる頃は全部フジゲンで作ってる。
そうそうレスポールもハンドルーターだったね。

(グレコが売れだしたときは)フジゲンがフルキャパだったから、マツモクの組み立てラインが3つもあったから。ブザーが鳴って流れてくるトヨタ方式だった。グレコもあればエピフォンもあるわけだ。アルバレズもあるしウエストバリーもあるし。ストラトのジョイントプレートにMATSUMOKUと入っている、あれも大量に作ったね。
マツモク製ストラトキャスターの証。

(Ibanezのマツモク製レスポールのことを聞いてみた)

Q:星野の仕事ってマツモクはやってないですよね?
サンプルだけじゃない?引き合いはあったと思うけど。
変な話当時のマツモクは引く手あまたじゃん。仕事選べる立場にいて本当にフルキャパだったから。なんでこんなに作って売れるんだろうって時代だから。いろんな世界中のメーカーが来ても、やっぱ当時の星野なんてアリアと比べればまだ小規模だったから。今でこそ世界のIbanez、TAMAに大きくなっちゃったけど。フェルナンデスなんてもっと下の方にいたんじゃない?
そういう時代だから当然政治家たちは大きいエリート会社と付き合ったんじゃないかなあ。

私が初めてNAMMについていったとき、今でも一生忘れないけど25歳のときかなあ、仕事終わってから毎晩お客と飯食うわけだ。ヒルトンに泊まって会社はいくらかかったか知らんけどさ。「スーツを2着もってこい」「夜と昼間と替えろ」飯食うと3時間。当時あんまり英語もわかんないのに苦痛でしかない。毎晩それが続いたよ。フランクフルトのNAMMショウで。
ブースも出した。ウエストンだけじゃなくて商売に行くじゃん。ミーティングに。ショウの最中はそうするとお客様を接待するじゃん?そのあとセントルイス回ったりエピフォンの会社行ったり出張するでしょ?たまたまマツモクは付き合っている人たちのグレードがすごかった。当然アメリカSINGERの力が入っているんだろうねやっぱり。今スペースシャトルへ行っちゃったけど。
それは荒井じゃない。それはね、マツモクのルーツを言うと、日本シンガーってのが宇都宮にあって1000人くらいの会社。その上が日本製鋼所。1万人いるような。まだ日本製鋼所はあるわな。その上がアメリカシンガーなの。アメリカシンガーは当時すごかったんだろうね。で、今はスペースシャトルへ行っちゃったけど、上からの命令で順々に閉められていったけど、林さんのみたいなブリッジ1個作るのに稟議書を書いてシンガーの親会社まで説明にいかなきゃいけない。フロドローズみたいなトレモロ作ったとき、私プレゼンテーションに行きましたよ。これは何のために作って、どれくらいって、ギターのことなんてわからん。なんでそんなものつくる?といわれる。だって親会社だもん。図面持ってプレゼンに行きましたよ。

なんでこれが出てくるかというと、これがきっかけでゴトーガットとの縁が深くなった。当時はまだ花岡工業って諏訪の部品屋さんとかトキワとかが元気だった。群馬のゴトーガットがこの辺からグーっと出てきて、今や世界のゴトーになっちゃったけどね。
ブリッジの稟議書持っていくわけ。ハンコが下りてくるまで1か月かかるんだ。大会社ってそんなもんだよ。
それでもいろんな体験させてもらった。

(フェンダージャパンの誘い)
神田商会の小嶋さんがフェンダージャパンの依頼に来たことは知ってますよ。でもマツモクは受けないとなった。ギブソンやってたでしょ?ギブソンとフェンダーは死ぬまでライバルだから。日本国内でいうと、荒井史郎さんと小嶋智さんってすごい歴史を創ったBig巨頭だったわけですよ。荒井さんはまだ生きているけど。神田商会の小嶋さんのパワーって半端なくてドスの効いた人でね。弟の鈴木社長もすごかったんだけど、グレコを2社で作るくらいね。A-Rockとか、やっぱり神田商会のパワーってすごかった。
奈良さんは勿論知ってますよ。神田商会の黄金時代の企画マンですよ。営業が沢田さん。
僕はアリアもやってるしグレコもやってるから。グレコ全盛期はフジゲンだけじゃできなくてマツモクもやってた。神田商会の斉藤さんはフジゲンとマツモク両方使ってた。
奈良さんはね、業界の超奇人、有名人の一人。ジョンレノンみたいでね。マツモクにもよく来てた。 


アリアは海の向こうですごかった。当時デュッセルドルフとロンドンとLAに事務所をもって。今の星野がやる前にやってたわけ。だからスティーブ・ヴァイとかみんな当時はアリアのLAのエンドーサーですよ。当時イングヴェイだって不良みたいなやつだったけど遊びに来てたもんね。XXのイングヴェイモデルのあとのマイケルシェンカーモデルは、あれはすごい数売ったよ。ものすごい数。それは俺がアリアに赴任するちょっと前かな、マツモク最後の方。これはものすごくヒットしました。日本で死ぬほど売った。


イングヴェイはRSで仕掛けたときに彼が出てきて。RSが一番売れていた時は誰だろう?・・渡辺香津美のYMOのときかな。RS-Xで。あれは私がもう東京にいて彼にくっついていた時だ。そのモデルがね。


当時(1970年前後から)のアリアって早めに海外出たでしょ。情報がすごかった。今は星野さんが当たり前にやってることだけど、アリアの方が上で活動がすごかった。

考えてみればあの当時って、アメリカ音楽が世界にどんどん出て行ってるわけじゃん。その前がブリティッシュロックで、未だに壁があるよね。音を創るのにイギリス系の人とヨーロピアン、アメリカンロックの人とは音創りが全然違う。それが結構あったね。極端に言えばこもってる音と明るい音の違い。それでいてアメリカでヒットすると世界のプレーヤーになれたんでヨーロッパのミュージシャンが行ったわけだ。俺が関わったイングヴェイやシェンカーって、アメリカに行って住んでブレイクしたね。

マツモクがつぶれる5〜6年前かな?上がフジゲンとコーポレートすると言い出して。
平林さんとか中田さんとかが技術部長でいる時代で、上條さんがまだ副社長だったかな。その時代に両方で交流しましょうというようなことがいろいろあって、その下にいたのが杉本達だね。(現Sugi Guitas代表)ちょうど僕が企画の窓口だったんで、彼らといろんなことを話をしたりしたが数年たって別れちゃったね。向こうはフェンダー、こっちはギブソンみたいに。上の方で政治的にね。僕らペーペーはジャッジまで聞かされてないけど。
(後日、杉本氏に聞いてみると、マツモク最後の頃、中田さんから何か仕事を出してやれと言われて3本くらい持って打ち合わせしたそうだが、結局マツモクが廃業してしまってね。とのことでした)

(フェルナンデスOEM)
当時はマツモクに来る、フジゲンに来るってのは、神田・アリア問わず日本の何かしたい人っていえばこの二つしかちゃんとできる工場がなかったわけ。
例えば最後に出てくるフェルナンデスはカワイ楽器とやってたわけ。カワイの当時の部長さんだったかな?ヤマハだったかな?斉藤重樹さん。ちゃんとした供給元がなかったわけ。ブランドは東京トレンドがおきてきたけど。クラシックギターからエレキをやりたいってことになって、オリジナルに転換するときにカワイ楽器が聞かなかったわけ。で、どういうことか知らんけどマツモクのドアをノックして。その時にアリアもやってたのにフェルナンデスも始めると、ある日突然、僕らは上司から明日から両方やるって言われるわけ。大事件ですよ。
1983年から

フェルナンデスのFR55の最終立ち上げやったのは私達です。下家、長瀬、佐藤というツワモノが居た。
フェルナンデスの言ってるのは、スモール、コンパクト、スクエア。そのコンセプトで作ってる。
フェルナンデスはなぜ武井部長が組んだのかは僕らはわからないけどね。供給元を探していたんだろうね。布袋のモデルはまだマツモクじゃない。カワイ。

ある日突然上から会議でフェルナンデスとやるって下ろされて、はあ?って感じなわけだ。
そりゃ困るじゃん現場は。その当時いろいろなもめ事が起こって、当時の朝日社長の最後の企画室ってのを作って社長直轄になっちゃう。要するに、他のフェルナンデスだアリアだのもめ事を回避するためにサンプルも一切見せない。ある日突然、社長直轄で企画室を別格で作っちゃう。そこで全部サンプルやったものが出て行って当時アリアとは結構もめた。
ただフェルナンデスはどんどん伸びた。そりゃあもう大変だったよ。アリアから八つ当たりを受けて。今みたいに携帯があったら大変だった(笑)
(確かにフェルナンデスのカタログが1985年あたりからボリュームが増え、その人気振りがうかがえる)
フェルナンデスは、電話で今日行って明日ここまで対応できる工場には会ったことがないってびっくりしてたけど、それだけ厳しく育てられたってこと。

(その他メーカーなどのこと)
ファーストマンの森岡さんね。知ってますよ。
エルクは、今でもエルクの話ができるのはKEYの藤森会長くらいじゃない。松木社長は死んじゃったし。 KEYの藤森会長が当時のエルクの営業部長だからね。松木さんから話をもらって。勝木さんていう当時の営業部長もKEYの専務で入って。だからみんな草分けで流れて行ってるのね。いろんなとこに。僕らはそれを現場でいろいろやらされた時代ですよ。


(斉藤氏のLP)
ジョニー斉藤が出てくるとはびっくりしたなあ・・
左:斉藤氏のLP 右:武井氏
武井の下にいた大和っていえばわかると思うよ。マルイの前で歌わされた。ジャパニーズ・ジョニー・キャッシュだ。
武井って営業部長が仲良かった。どういう付き合いかしらんけど、ミスター武井は営業部長やってたせいだろうな。いろんな人つれてきて僕らはその下についてった。
オリジナルはマツモクのほうが早かったのね。で、斉藤任弘さんがキーパーソンだ。神田商会がものすごく力をつけてきたときにグレコとアリアが2強になった。で、それを両方持ち上げるために斉藤さんが一番尽力した。私なんか斉藤さんについて前座で歌わされたりしてた。
オリジナル(エルク)は斉藤さんが持ち込んできた。だからアリアより前だ。よくやったのは。



池部社長(イケベ楽器)池部さんは奈良さんと仲良くて、要するにイケベ楽器は神田と仲が良かった。フェンダージャパンイコールね。それもあって、いつかはイシバシを超えるんだって言ってた。池部さんは当時、スニーカー履いてナップサック背負って良く松本に来たんですよ。だから、マツモクもフジゲンもイケベオリジナルでたくさん作ってたね。
B’zの松本君だって池部さんについて遊びに来たよ。当時イケベのアルバイターで売り子。ギター上手い小僧がいるなあ、誰だこれ?って聞いたら。「プロ目指してます」って。それからあっという間だった。


当時の有名人は大体きているんじゃないかな?当時のバンドの人。Herb Ellisとか超有名なジャズギタリストも。
アースシェイカーのシャラとか甲斐とか来てた。カイモデルはアリアでやったからね。
松井常松もやったし。売れなかったなあれは(ロケットベースのコピー)



外人は多いよ。ピックアリアのこういう関連が多かったから。宇崎竜童さん、和田静男さん、渡辺香津美はマツモクにつれてってないな。松原は連れてった。今思えばすごいよね。マーカスだウィル・リーだ、とんでもない。
アリアの全盛期ってのはスタートがジャック・ブルースでしょう。とんでもない顔ぶれがいたね。


日伸音波とはやってたけど、当時僕は仕入れ担当者じゃないから分からない。サンプル作ったときだろうね。
田村さん(OD-808、TS-808等の名機の開発者)の名前はお聞きしていたけど、なんでか須山さんしか来てなかった。

パフォーマンスギターの須貝さんはアメリカンドリームをかなえた人。NAMMにはいつも来るよ。うろうろ。

谷川史郎さんは名古屋にいたときのほうが仲良かったかな。名古屋だったから
開発の連中とね。その辺は知っている人はみんな引退しちゃった

原山ギター 原山さんっていうと我々はネックってなる。原山さんのネックは当時のミュージシャンは評価してる。


(マツモク後にやった仕事)
独立してからも布袋のグレインってギターは私とHSG下家氏、松崎氏(フェルナンデスOB組)がやってる。レイゾの後のアルミのやつなんだけど。クエストになってからも売ってる。
腐れ縁でね、たまたまフェルナンデスの連中と付き合いがあったもんだから。今でもアトリエZの社長は、当時のフェルナンデス全盛時代の営業マン。最近はLandscapeオリジナルOEMは私のところからアトリエに供給してるけどね。
アリアのAP全盛のときはほとんどT’sで作ってる。私が仕掛けた。アクアとかマグナの最初のとかね。
80年代終わりの方から90年にかけてだね。最後の方は寺田とか東海も使ってた。
私がマツモクが閉まってアリアに正式に赴任した時は、まだSBをヘッドウェイが作ってた。


私が業界に入って、原山さんはもう出ちゃってたでしょ。
林さんは直接は1〜2年じゃないかなクロスしたの。すぐ辞められちゃったから。私は一緒に仕事するってよりもマツモクの外に出されてて、当時のマツモクって営業の関係は、荒井貿易の海外エージェントに出向に行けとか、人を育てるためにどんどん出すの。戻ってきて何かやれって感じ。今思えばなんでこんなこと俺ばっかりやらされてんのか?って思いながらやってたけど。
で、アリアの企画の窓口を私がやってた関係で、マツモクが閉まったときに企画室に来ないかっていうことでアリアに行ったわけ。
今、アリアはガタガタだと、何とかしてくれないかって。迷ったんだけどね。結局、家族まるまる連れて東京へ出て。再就職先は企画室長。
今でも忘れませんよ。店に挨拶に行ったら「おめえ何しに戻ってきた」って。なんで?って聞いたら、「明日つぶれるような会社に何しに来た」って。そこまでアリア落ちてたからね。
いまから30年前だね。その時はフェルナンデスが伸びちゃった。フェルナンデスはマツモクと組んでちゃんとした供給元を得たためにこんなになっちゃって(急成長)アリアはそれでスネて安いほうへ行っちゃった。で、またそのアリアを立て直したっていう皮肉な結果でね。仕事なんでね。


(オフィス内に展示されたギター)
この今ここにあるのが本人が使ってたやつ。イエスのトレバー・ラビンね。


これは松原正樹が死ぬ前に使っていたセット。一昨年ガンで死んじゃったんだよね。アリアのPEを義理で使っていたりもしたけど、私は今ランドスケープとMDの方なんで。ExportはLandscapeにどっちも統合。


こういうのもある。アコースティックの。これは寺田です。このころはね、韓国がそろそろ出てくるのかな。だから幅が変わっていってるラインナップの。


(ヘリテージ)
ヘリテージとかね。ここはギブソンのオリジナルの人たちはこれなの。カラマズーギブソンのオリジナルの人たちが、ギブソンに頭にきて独立してヘリテージを創ったの。この人たちは逆に仲が良かった。いまだに当時のこのギターが欲しいと言ってミュージシャンが探してるよね。
で、アリアで私がエージェントとってきたの。もしかしたら今でもそうかも。


そういえばオービルもやったな〜懐かしいね。フジゲンと。あまり表向きには言ってなかったけど。

ウィルキンソンなんかは私がロスでマック海野君とWilkinson Tremoloを作るときに知り合っていまだにお友達でやってる。ブリッジでブレークして。GOTOHのVS100、韓国VS50そしてChinaとトレモロの一つの歴史を作ったね。
GOTOHは専務と先代の社長ね、マツモクとフジゲンに糸巻きを納品するのに、納期遅れすると工場止まっちゃうじゃん。夜なべして碓氷峠を越えて夜中に毎日のように納品していた。それを知ってびっくりして、それをしらずにこんな不良品作ってって怒ってたんだけど、すごい工場があるもんだとマツモクも気づいてそれで中継をするようになたんですよ。碓氷峠で。 そんな時代は名前のとおりガットから始まってるんだけど、うんと苦労して、品質がなきゃだめだと開発に首を突っ込んでっている流れがあって先代にかわいがってもらって。ウィルキンソンとの仲介もしたし、未だにミュージシャンにGOTOH使ているっていうと信用が全然違う。

チャッティングバード懐かしいね。(写真なし)
これ共和商会。今のキャパリソンの前身。

これがアルバレズヤイリだ。マーク入ってる。(写真なし)
日本でも売ったんじゃない?このカタログ日本版じゃん。これのプロジェクトにためにセントルイスに行って住めと言われて。

このころのエピフォンは全部マツモクから行ってるんだ。(写真なし) 一番作ったのはカジノ、シェラトン。ウィルシャー。これルディ・サード、RSB-800で死ぬほど売れた。これ私が赴任した年じゃないかな?このころのミュージシャン関係すごいよね。これは寺田と組んでやったアコースティックシリーズ。アリアのエレコードっていうシリーズ。


これがマツモク時代のコピーを作ってた頃のアリアの輸出仕様のカタログだね。
まだコピーだよね。まだ林さんの名残が出てる。
フルアコの方は当時、春日楽器だったかもしれない。



1970年前後のアリア輸出向けカタログ。まだ1960年代の雰囲気が残っている。


1994年のアリア ここからだもう一回アリアが生き返ったの。この人がいまだに私がずっとやってる。自分のオリジナルでもやってる。ほらやめちゃったブランドのは載せないから。当然。


アリアもやってるしスギもやってるしフェルもやってる、とにかくいろんなことに首突っ込んでる。
私もどっちかっていうとプロデューサー的な仕事をたくさんやってるから、そういう話はいろんなところとコネクション持ってる。


フロイドは80年代ですよね。VAN HALENとEMGはそこからだからね。
エディーとは会ったことありますよ。そんなのショウに行けばいくらでもウロウロしてるじゃん。本人は結構コケティッシュだよ。小柄な色男だよ。
VAN HALENのコピーは唸るくらい作って売ったよ。フェルナンデスが得意でさ。
数年前にイケベと組んでエディがPlayer誌の表紙に載ってるTEISCOのギターレプリカ作ったよ。限定100本。

ミュージシャン・コピーモデル。


(アリア楽弦)
 荒井貿易の傘下会社なんだけど、それらの仕事は今はフレックスの高山さんが自分でやっているんだけど。ケースもやってたよね。杉村君は高山の部下だったはずだから。それは(MMKピックアップ)啓陽か日伸音波から行ったピックアップじゃない?
アリア楽弦は生産能力のある会社じゃないから。商社だから。


(最後の出荷記念写真)
これがマツモク閉まるときの最終ギターの出荷。ヘッドのフェルナンデスを隠してるけど。
俺も若いけどさ。
これが武井部長だ。営業の。もともと総務部長だったけど三好常務で整理に戻ってきたの。この人が製造部長の古家さん。あとは最終工程の人たちだな。これが最後のときの1本だってみんな集まれって撮った写真。
最後の1本はフェルナンデスのベース。

(最後の注文駆け込み)
最後は会社が終わるのに駆け込み注文で8000本注文があった。162人いた。でも閉められちゃった。だから何もわからない従業員たちは不思議だった。仏壇失敗したのとか、きっかけはあるんだけど。
俺は実は組合の役員やってたから1年以上前から話はあった。得意先にも段取りして
従業員にいつ落とすか。組合の執行部だったから頭が痛かったよ。で、たまたますぐ会社側になっちゃったから、企画の仕事で外されて。組合やってると当然弊害になっちゃうわけ。
開発とかお客との。変な話24時間体制だ。ブラックっていうけどさ。海外出張に行け、どこどこ修理いけ。そんなのをやってると。いろいろそういうのがあって。後ろはみんな仲間だ。
今思えば労働組合なんてナンセンスなことやってたと思うけどね。最後の方は労使協調って言葉が出てきたけどね。ただ、閉めなくても済んだかもしれないけどしょうがないよね。
市にうまく土地が売れて税金かからなかったし、みんなの退職金出せて交通整理できて。
本社はけっこう持っていたんじゃない?おそらく。自分で経営するようになってわかったけど当時はこんなもんってかんじだよ。みんな路頭に迷ってフジゲンさんに行った人、外注の塗装3軒くらいあるよね、橋倉塗装、下倉塗装、三泰、あれみんなOB組ですよ。マツモクやフジゲンから出てる連中。フジゲンを経由してまた出た人もいるし。結局商社に行って仕事したのは俺一人。そういう関連で。
フェルナンデスの最後の付き合いがあったもんだから、フェルナンデスの常務だった下家さんが辞めて独立して大阪にいるんだけど、そいつが布袋のつながりの人間持ってて、独立したなら一緒にやろうって。それはいろいろやってますよ。Sugiの仕事は最近の話だからね。いろんなOEMの裏の仕事をやってきてるね。
プランニングの仕事任されたり、中信楽器のシャーベル立ち上げたときは1年くらい手伝ったよ。変わり者の社長で困ったけど。酷かったよ。安曇のキムジョンイルって(笑) 1年くらい顧問の仕事頼まれてやったけど、やっぱりこの人とは続かんなと。自分の仕事もあるしね。立ち上がったばっかりの仕事はいろいろやってるね。トーカイのやつもやってるしね。
当時のトーカイは自分の工場で全部持ってたしね。機械工場、塗装全部持ってた。
ヤマキは・・諏訪か。ウォッシュバーンも僕お付き合いありましたよ。ルディー・シュラハっていう本当にユダヤのトゲトゲのオヤジでね。アメリカの業界の裏は全部ユダヤ人。楽器とかは全部そう。
レオフェンダー レスポールが元気なころは僕らは会えているから。

この中信地区はギター工場はまだ生きているけど世界の楽器のメインでなくなっちゃたからね。
フェンダージャパンの当時のものが今ブームなのはわからんでもないんですよ。当時の日本製良かったねってところから始まってる。Ibanezは殆どインドネシア行っちゃったでしょ?アリアもやっぱり中国へ行きすぎちゃってPEなんかも韓国で作っちゃったでしょ?この辺からダーンと(おかしくなった)。極端に言うと私が辞めた直後なんだけど、一気にAPだとかプランをアリア1ブランドでやるってね。スタッフもみんな私が辞めた後に辞めちゃってね。みんなそういう歴史があって、フェルナンデスは逆にアメリカフェルナンデスを台湾のヤコーって会社に売っちゃってからパワーダウンして、斉藤さん跡継ぎいないもんだから。台湾には台湾ゼンオンとヤコーっていう2社あるわけ。台湾ゼンオンてのはヨーチェンていうんだけど、それも今中国でけっこうパワー持ってるけどね。それはアリアと仲がいい。アリアの株30パーセントくらい持ってるんじゃないかな。

ちょうど僕らの時代は日本の高度成長期だから、日本製にどんどん目がきて情報が入ってきたけど、マツモク潰れたあたりから日本はちょっと置いておいて海を越えて経済が動き出した。韓国とか。そこで情報が途切れだす。私が荒井に行ったときって、サミックとかヨンチャン、コルト、セイハンこのBig4が全盛期だ。逆に言うと荒井はサミックの力が無かったら生き返らなかった。あの頃で円が135円くらいじゃない?僕らの社会人になった時は360円だから。そりゃあ世界から引く手あまたで来るわけだ。
今でも忘れないけど初任給47000いくらだった。



ミュージシャン側とかアリアからの繋がりの方が私の方は強いね。マツモク閉まってから。マツモクじゃペーペーだもんおれは。閉めるときは係長になってたけど。



アリアに在籍しているときにベンチャーズの連中が来てさ、ノーキーが外れたあとセミーモズレーでもめて。アリアでベンチャーズモデルやったきっかけなの。なんとかしてくれって頼まれて俺がやった。
本人たちが日本公演来た時に突然、事務所に電話がかかってきて、英語でなんか電話かかってますっていうから、誰だって聞いた。そしたらベンチャーズですって。ジョイントベンチャーの関係なら仕事いらないって言ったら、ミュージシャンのベンチャーズだって(笑)
しばらくアリアがケアして付き合った時期があった。ジャズ系からロックのお坊ちゃまからいろいろやってる。
チャカ・カーンとルーファスの関係は仲良かった。ボビー・ワトソンとかトニー・メイデンとか。NAMMの後にトニーの家に招待されたことがあった。


(これからのエレキ業界)
ご存知のように本当に売れないからエレキギター。
特にエレキギターがね。まだフォークの方が売れてる。エレキギターがダメになっちゃった。中国の進出(コスト)で狂っちゃったね。
イケベの店頭行くと販売価格39800円 レスポールスタンダード メイドインチャイナ
Gibsonって書いてあるよ。いままでは元々エピフォンだったの。ギブソン、フェンダーが狙ったのは、コピーが世界一多いでしょ日本って。はじき出すために価格が下がってそういうゾーンに落ちてきた。いくつかのブランドは死んでるけどね。

フェンダージャパンって2つストーリーがあるの知ってる?世間で言われているにはフジゲンの技術がいいからってのと、要は価格ゾーンをコントロールしたかったのね。どこでやるかがテーマになって、当然神田商会のパワーがあったから株主だったし。で日本でやれと。じゃあどこにするかというとマツモクは当時パンパンで、じゃあフジゲンで、ってなっていっただけなんだけど、大きな流れを言うと。
で真似してオービル・バイ・ギブソンが来たでしょ?でこれも失敗したでしょ。
本当はあれが今続いていればもうちょっと日本の市場は壊れていなかった。ここを取られちゃって1ブランドでスポーンと下まで来ちゃったもんだから、ほとんどのブランドが突出しちゃった。だから恐ろしい、フェンダーギブソンがやった犯罪的なこと。コスト破壊もそうだけどね、三角形壊しちゃった。
マーチンとかテイラーの方がまだ壊れていない。私もバイトしてマーチンのD28買ったクチだから、夢の楽器を何てことしてくれるんだでしょ?
価値観がなくなっちゃった。フェンダーが慌ててまたビルダーシリーズに戻してるでしょ?まだフェンダーの方がいい。ギブソンの方が危険だね。この前メンフィスの工場も売っちゃったでしょ。建てなおしたけど倉庫にするだけみたいなね。投資家がそれ以上やりたくないって言ってたね。
マーチンは歴史を守ってるのよ。憧れの楽器だったのを大手が壊しちゃったね。

さっき言ったテキサスのHondoUなんてアメリカ、テキサスの金持ちの会社なんだけど、それもマツモクで月に40フィートの注文があった、40フィートっていうとストラトで月に1000本以上だ。すごい売れたんだけど大モメして喧嘩になってやめたけどね。トミー・ムーア会長に足をテーブルにこうやってやられて「ジャップ」って言われて。テキサスまで行ってイエローモンキー・ジャップって言われましたよ。僕らはね。この小僧めだよね。
俺はその時の政治はわからないけど、部長は契約切るつもりで行ったんだね。ショウのあと。そこの営業部長が困っちゃってオロオロして、夜ステーキ屋に連れて行ってくれたのは覚えているけど。クレームの嵐だったんだよね。作る度にいちゃもん。だけどいっぱい注文くるわけ。


でもアルバレズヤイリのセントルイスミュージックが一番シビアだった。もう見積書から全部値切られて。真面目な人なんだけど、ものすごい細かい人で。ユニコードのウエストバリーのハックさんって人は死んじゃったけど、業界でも有名でアメリカの楽器業界のエリートの人。今生きている70代中頃の人たちは、ハックさんっていえばユニコードのってくらい有名な人。
日本では横内さんでしょ、マツモクは塚田さんから始まってるでしょ、商社で言うと荒井史郎と小嶋さんとフェルナンデスの斉藤さんが出てくる。その間に番頭がいるわけだ。ジョニー斉藤氏とかね。僕らはそういう人たちに教えられてきた。要は。
コルグの加藤さんはね、もうすごかった。KEYの藤森さんも。裕次郎バリで背が高くてかっこいいんだけど喧嘩っ早くて。昔の人は多かったよ。酒飲んで会社に来ないの普通だったみたいな。
小嶋さんはもうね・・ヤクザのボス的な商売だったね。でもすごい面倒見のいい人だった。口は悪いけど太っ腹だった。荒井史郎さんの方がジェントルマン風。俺の知っている限りでは。直属の上司っていうか社長さんだったからな。
荒井史郎さんはギターをいっぱい持ってきただけ。
荒井史郎さんって人を解説すると、日本の商社で世界に真っ先に顔を売ったのは荒井史郎。

1978年 NAMMにて。左から2番目が荒井氏

はじめてマツモク時代にNAMMショウについていったときにびっくりしたのは、会う人会う人みんなシローシローってくるわけ。進まないわけ。冗談抜きで。この人なんて人だろうスゲーなって思った。
だから初代ギブソンのエージェントはアリア、オベーションもアリア、JENのクライベイビー、有名ブランドはみんなアリアが持ってた。なぜかみんなどっかいっちゃったけど。
そのくらい史郎さんって人は顔があった。英語も喋れたしね。それを介してたぶんコルグの加藤さんだとか小嶋さんだとか史郎さんを利用していろんな事やってた。森平さんは現地に駐在員を置いて。いまだにフェンダーGOTOHの糸巻きの納品はモリダイラだからね。
カリスマ性のすごい人たち。僕らはペーペーだから見てただけだけど。後にマツモクが無くなった僕がアリアへいったでしょ。そしたら森平さんがね、「ヘイ、ユーはベリーフェイマス」っていうわけ。はい?って言ったら、「お前な、この会社は黙ってたらつぶされちゃうから言いたいことをはっきり言え」と、荒井史郎さんの目の前で言うわけ。なんで俺のことなんか知っているんですかって聞いたら、「社員からちゃんとレポートもらってるよ」と。実はうんとフェミリアな会社なんですよモリダイラって。今の皆川社長もそうだけどね、みな人がいい人たち。だからちゃんとそういうレポートまで耳に届いている。あれは一生忘れないなあ。今から30年前だ。
マツモク無くなってアリア行ったとき。いろいろあってね。あちこちから声をもらったけどアリアの開発やってたもんだからやりやすいでしょ。企画を全部任してくれるっていう条件で行ったの。営業マンだったら行かなかった。
たまたまだけどね。当時ここで少年サッカー教えてて、全国大会に行ってるの。だからそっちの道を選ぶってのもあったんだけど、長野県の決勝になるとマツモクと富士電機と日精樹脂と山雅か長野県教員がいつも決勝であたる。そういう交流もあったりしていろいろ違う方の顔も持ってたの。だけど企画を全部任されるとなると男としてはちょっと面白いじゃん。乗っかってアリア全部やってたわけ。残念なことにやめてから20年でアリアどっかいっちゃったけどね。

(今の仕事)
ここは今もミュージシャンが来てリハやったり楽器のメンテやったりしてるけどね。倉庫でやるだけ、スタジオじゃない。モノを作ってるからねここで僕が。ちょうど来週母体が入ってくるところだ。塗装まで向こうでやれるようになったので、ネックをボルトオンで作っているから自分でやれるようにパーツで来るわけ。ボディとネックだけ。あとは自分でここでやる。そういうシステムをとらないとやっぱりバイオリン工場にハンダごてとネジのノウハウはないでしょ。ホントは全部やってくれると楽なんだけど。




日本に持ってきてやってるから価値があるんだろうね。これはおかげさまで有名人が沢山使ってくれた。ジャズ、ボサノバ、でもBUCK-TICKも使ってるよ。Uperworldも使ってるよ。チャットモンチーも。これはSugiのプロデュースやってるときに自分が立ち上げた、準備に入っていた商品で、Sugiのプロデュースは2年くらいでやめたから。立ち上がってミュージシャン紹介していろいろやって、こっちの方にエネルギー使った。4人で彼らが始めたときに作るはいいけど販売がわからんと。ついてはやってよ、という話になって。最近全然会っていない。海外のショウ出会うことの方が多い。

これからいいが音する、いい材が入ってこないでしょ?それが頭痛いね。
アフリカンマホガニーって。ホンジュラスって言ったら逮捕だからね。だってナトーつかってるとこあるもん。アガチスってやつ。ポカポカだった。ネジ揉むのにバカになっちゃうくらい。ラワンと一緒。そのあと出てきたのがトチとか。スカスカ。甘い音はしたけどね。やっぱりアルダーとアッシュに落ち着いたというか。センは日本の材料使おうってセンにしたんだけどね。導管がちょっと細いのね。アッシュみたいにアタック音がよくない。ちょっとポカってする。アッシュの方が硬いのね。
フェンダー、ギブソンも苦労して材を選んだんだと思うけどルーツがあるよね。タイムレスなんてのは昔は当たり前にあったわけで、今はアクアティンバーとかって言ってるけど。
今は材料も指板はエボニー。ワシントン条約でローズウッド使えないじゃん。今はまだ流動在庫がどこかにはあるんでみんなやってるけどダメになるからね。昔は材料がいくらでもあったけど、だってトラ目の材料平気で塗りつぶしてた。おいおい何やってるって言ったら、何って塗ってるんだわって怒られてさ(笑) 材料は丸太で買って自分達で天然乾燥してたから。


私は生産工場じゃないじゃん。プロデュースはやるけど。だからみんな困ると来るけどそうじゃないときは近寄らないわ。ははは。 
よく言われる、大和君なんでメディアに出ないんだ?って。そんなの出たってしょうがないじゃん。使ってナンボでいい。
だから高中、野呂、香津美、この辺の王道はみんな絡みがある。高中はね、岡沢章っていう超有名ベーシストがいるんだけど、それがメンバーに入って、てそんな関係でライブに行くようになったら仲良くなってさ、ストラト好きじゃん?商売上はヤマハのを使ってるけどビンテージのストラト弾いてる。いまだに1000人規模のライブできるのは高中一人じゃないかな。今63歳になるかな?要は楽器小僧になるとしゃらうるさいの。あの社会の人って。
売れセンのメジャーで面白かったっていえば陽水さん。超変人だよ。陽水さんところは今剛だ、松原だ、ベースだとミックがいたりとか、あの辺はみんな仲間だから、ミックもSugi始めたときエンドースやったんだよ。
ボクは出戻りなもんで新しい人たちとつながりがないの。途切れちゃってる。マツモクから出ちゃった。

(ジャパンビンテージ アリアインタビューについて)
笑っちゃうけど、JAPAN VINTAGE誌 これのとき、だれもアリアの歴史がわからんから大和さん頼むわって、シンコーから。一応業界古いから編集部の人間とか編集長知ってるから。ギタマガの野口君なんてよく知ってるわ。

ほんと黄金時代だったね。為替が良かったしね。 要は日本製品が引く手あまたで、今の電気がそうで世界に出てったでしょ。円高でそれは大変な時期もあったけどね。
マツモクは結果的には実際、楽器工場守れなかったと思う。中国インドネシアの動きみてても、ものすごいコスト競争力だからね。

JV時代って俺たちがハングリーだった。この松本にいて何にも情報がないんだもん。
荒井史郎氏が海の向こうからギター持って帰ってくるわけじゃん。これ切っていいですか?って。ギブソン・レスポール切っていいですか?って稟議書を書いたの思い出した。どうなってるのかわからんのだもん。アーチドトップのギターなんて初めて見たわけだし。

マツモクの1975年のカタログはからんでる。切ってある写真あるでしょ。

知りたいじゃん。セミアコのセンターブロックってどうなってるかとか。俺ら知らんもんで、切っていいですかって稟議書を書いて。 考えてみれば俺らエピフォンでそんなのさんざん作ってたわけ。カジノとシェラトンとリビエラってセミアコはマツモクから唸るくらい出ていったんだから。でウィルシャイヤーがあったでしょ。なんでこんなことやってんのかな?だよ要するに。当時はわかんないわけ。部品数多すぎて部品管理も大変、こんなのやってられるかって社員は怒る。一日で何モデル作るんだ!って。1日300本くらい作ったかな。とんでもないですよ。ビックバイヤーのやつなら当然半日くらい同じモデルが流れてるわけ。ベンチャーズモデルなんか唸るくらい作ったな。
VOXでバイオリンベースもすごい量作った。70年代だね。死ぬほどあったよVOXのバイオリンベース。今あれ持ってたら価値だよね。輸出だけで国内には出回ってなかった。マニアは逆輸入してるけどね。
VOX ピックアップでマツモクとわかる。


JV探す意味はわかるよね。指一本入る弦高でよく出ていったと。中国馬鹿にしてるけど酷かったぞって(笑) ネックバックあるじゃん?クレームがきて、怒られて現場の倉庫行くわけ。見てみろと。ネジが2本しかついてないとかね(笑)こんなの出荷するはずないんだけどっていっても事実ないんだから。
俺らは企画やってると営業兼クレーム処理も飛んでいかなきゃいけない。だから工具カバン持ってさ。飛んで歩いた。アリアとグレコのオクターブクリニックってのがあってよくやったそれは。グレコも。それは斉藤さんにうんと世話になった。小売り屋もそういうレベルの時代だったんだろうね。メンテに歩いてチューンナップしてあげないといけない時代だった。
神田商会は12階の沢田さん。僕らはたまたまミュージシャンのテックやってたもんだから余計にそういう仕事に使いにだされた。ギターは無償ですよ。メーカー派遣。
初めてついたのがわかるかなあ? 東京ユニオンっていうフルバンド。今でいうスター誕生だよ。それのパイオニア。そこのベースがSB使いだしてさ。それでステージの横にくっついて怯えているわけだよ。弦が切れるの待ってるわけだよ。
当時ロトサウンドだけどチューニングが合わんって。今だからわかるけど、どんどん伸びちゃう弦だったのね。奈良さんがもってきた弦。いい音するんだけど伸びる。チューニングが狂うって。うるさいうるさい。あれは一生忘れんな初めてのテック。当時は予備のベースやギターをもって袖にいたもんだ。一本でステージ通らなかった。調整しておいてまた渡すわけ。そういう経験してるもんだから今は全然怖くないしちゃちゃっとやっちゃう。当時はビビってたね。
それで事件がおこるの。音が出なくなっちゃたりさ。でもジャパン製だったの。エンドピンが取れちゃったりさ。音でなかったりすると半年くらい口きいてもらえない。酷いミュージシャンはギター投げちゃった人がいたね。やれるかこんなのって言って。そういう目にあってるけど現場の人はそんなの作ってねえっていう。
今思えば恥ずかしいようなギター作ってたわけだ。いろいろあったわ、トレモロ使うとポーンって飛んでっちゃうとかさ(笑)
後藤ガットには何百本ってバネのテストさせてるんじゃない?焼き入れ焼きなましの。合わないんだもん。伸縮率が違うわけだ。バネ決めても弦のゲージが009スタートだ010スタートだ、外人だと011だって全然かわっちゃうじゃん。そういう情報が全然ない時代だった。ただ真似してつくったんだもん。
バネが一番苦労したかも。
僕はね特殊なの。テックの仕事やってるじゃん。企画の図面描いたりプロデュースの仕事してるでしょ。販売の商社やりながらビルドアップする仕事してるから。ちょっと変わった過程をやってる。じゃないとこういうことできない。逆に。
先週も有名ミュージシャンのバックが来ててさ。音合わせるって。遊び半分くる。変な人たちが。
まっとうな人は殆ど来ないって言った方がいい(笑)

俺は工場にいる時間が短かったから、あっちいけこっちいけって出されてたから。
原山さんはいい人だった。原山さんは技術の方にいて俺はエンドの方にいた。組み立てから終わりの方。入社したころまだいたと思う。2年くらいしてからあっちいけこっち行けだったから。企画で戻ってきてからいろいろやりだしたときに、なぜか古家さんが部長になってた。
古家さんは塗装のスペシャリスト。いつのまにか製造部長になったんだけど散々喧嘩した。サンプルって面倒じゃん?プロダクションの横にもってこられると。手番とられちゃうじゃん。お前にライン止める権利があるんか!って。俺がやりたくてやってるんじゃないけど(笑)それが記憶にある。
サンプルってしょうがない。宿命だよね。特に塗装なんか。スプレーガンで吹いてたじゃん。特殊な色を吹くっていったら、一個やるためにそれまでの塗料全部捨てないとだから。ラージフレークのメタリックが流行ったときは大変だったよ。塗装部屋の中にフレークが舞ってるわけ。次の塗装やってるときにそれが舞って入ってきちゃうわけ。大変だったよあの頃は。たくさんあったよ、特に竜童モデルのアーチンやったとき。シルバーとか竜童さんのはグリーンだった。
当時一流の大卒が結構居た。ようするにみんな変わり者だよ。こいつ働いてない野郎だなみたいな。入社したばかりってそういう記憶がある。俺らも働いてなかったかもしれないけど。
早く外に出されて、おかげさまでアリアだ、グレコだ、フェルナンデスだ、そういうチャンネルの人たちとのコネクションを持てた。おかげで独立して21年こうしてまだ生きてるんだわ。
ずいぶん妨害受けたけどね。名古屋らしい話で。本社勤務になっちゃって家族は東京にいたし。しょうがないもんだから家族を先に田舎へ返して会社作っちゃって。飛び出しちゃっていろいろ大変だった。マツモクで唯一俺だけだもんこういうことやってるの。マツモクの頃の思いとか持ってやってるの。
まあ本当にグッド・オールド・デイズだわ。

今はネットで買えるから出店はあまりいらなくなっちゃった。こういうのでもネットで買ってくんだよ。おいおい楽器なんだから演奏して買えよって。
朝1時間はメールの処理が多い。メーカーに聞いてきちゃう。修理は受けたりするけどね。お客が店でできないメンテはね。でもね直販の時代になっちゃうかもしれない。今の小売り屋さんがそういうことちゃんとしなくなっちゃったから。ここからは難しいね。今まではギブソン、フェンダー、マーチン置いておけば、どうのこうの言っても何とか売り上げが帳尻が合って、今日も1本も売れねえっていって夕方50万のギブソン1本売れたって帳尻あってたわけ。今それができなくなった。ギブソン、フェンダーの処理に追われているみたい。
今はエージェントが無くなってアメリカのメーカーと直で契約だから。年間でいくら買いなさいになっちゃってるもんだから処理班みたい。その資金繰りに苦しんでいるのが大手の店。この春、山野とイシバシはギブソンの契約やめた。島村はつないだな。そういうところが出てきた。エレキ業界はすごくシリアス。この夢の時代に戻りたいくらい。

今のギターは、スペシャリティをもってミュージシャンのミュージックシーンで残れる楽器にしていかないと日本の役割は物量生産じゃないからそこがキーポイントになってきた。
アメリカに行ってもそうだったんだよ。工場は。ただスペシャリストたちがいて、いきなりそいつらがプロ並みのプレイが出来て、でも作ってた。今のアメリカでも懐が広いから悪いとは言っても全てのジャンルで存在感がある。日本はやっぱり物流に乗っかっちゃう。すぐ。そこがやっぱり問題だよね。大手の企業がみんな不正ばっかり出てきちゃったでしょ。やっぱりもう限界だよね。新しい物が生まれなきゃいけない時期に来てるんだけど。

(プロトPEタイプ)
若干は作ったけどデビューさせなかったのはカリスマ性を持たせるため。数本はやった
これは松原が気に入って使ってたやつ。この当時からこのモデルは思想があって一個一個別々のピエゾで当時はなかったんだよ。これのクラシックバージョン。

最初は寺田で作った。このサンプルは東海の死んじゃった滝川工場長さんが作った。ハンドメイドで。
これ死ぬ間際の八神純子のツアーで後藤嗣敏と松原がセットでやってた時に使った。
そこあとこれが出来上がった。(MD)パラシュートのラストライブで弾いてた。死ぬ前の。
これ全部本人が使ってた。


このプロト持っている人いるんだ。これ何本作ったかな?3〜4本かな? 私がアリア辞める間際に。そこに1本残ってるけど。へえ〜
これのスチール版がこれです。

(豪華なインレイはどこで?)
プロトPEの指板インレイはどうかなあ・・大和マークか林商会かなあ?
大和マークは外注を持ってて、今はレーザーだけと昔はルーターでね。今は中国まで行って二世がやってるけど。先代の社長はよく松本まで来ていたね。



(いただいたピック)
布袋のピックやるか。リミテッドが二つくらいあるよ。俺たちが販売権利もらって売ったの。
これは店にはない松原正樹の。


(館長所有していたMA-05)
マグナでしょ。MAのカスタム。それはT’s製だね。マグナのレギュラーはTokaiで、マックスで月300本くらい作ったね。あれも価格競争で下にいっちゃったもんだからね・・・まだ二光通販が生きてたからね。楽器業界で有名な(笑) その時代からまた日本に戻さなきゃって考えてるけどコスト競争力がない。
アリアの時、新星堂はロックインの仕事けっこうやってる。マグナのロックインモデルってすごい量生産した。


(壁の陳列ギター)
壁のヤツは全部松原。 ゼロから立ち上げたランドスケープ。エレキ版アップライトベースね。
ここは松原のメモリアルコーナー
NAMMのが私がやってるとことか。マツモクのメモリーを出してある。
超マニアックですから。今カタログ作ってる。



(壁のEシタール)
シタール これは世界でウチしかやってない。コーラルがオリジナル。ジェリージョーンズも絶えちゃったから作ってるの。このブリッジも私がGOTOHと設計して作ってる。

(工房スペースにて)
ここが工房。製作もここでやる。


これがPEのプロト。ブリッジいろいろやってほじくってる。
今NAMMショウに持っていくやつを作っているところ。
ここで本人向けにビルドアップしてくれるのはうれしいよね。


最後に記念撮影  ありがとうございました。









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林信秋氏インタビュー  
(1943年生まれ 長野県川中島出身)ATLANSIA INSTRUMENT TECHNOLOGY LTD代表







幼少よりエンジニアでピアニストでもあった父親とクラシックを聴いて育ち、母親はオルガン奏者という音楽好きな家庭環境で育つ。
高校時代はブラスバンド部、クラシックギターにも触れ、絵が得意でグラフィックデザインにも興味があり武蔵野美術短期大学に入学。都会が苦手だったという林氏は、卒業後は長野県に帰ることが条件だったこともあり、父親の知り合いの紹介で1963年に松本木工に入社。ミシンキャビネットのデザインからはじめ、すぐエレキギターの生産に関わる。以降は技術課でギターの設計・開発に従事する。
1977年には名機PE-1500をデザインし、同年退社後、林信秋ギター工房を松本市に創業。独特の感性でデザインされたギターとベースが一躍注目を浴びる。1979年には最初に手がけたモデルのGARLAND BASSがアーティストとともにグラミー賞を受賞。
またギターやパーツ製作に必要な工作機械やプログラムを自身で設計製作して実用化するなど、発明家としての一面も持つ。後年は写真家としても非凡な才能を発揮。
1982年にアトランシア・インスツルメンタル・テクノロジーに社名を変更。現在に至る。
当時、オリジナルギター&ベースを手がけるメーカーとして先駆けた稀有な存在で、現在いくつもある松本のギター工房の礎を作ったといっても過言ではないだろう。







フランクと取材の時



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1963年入社。マツモクでは技術科に属し、シンガーのミシンキャビネットのデザインに従事。
エレキブームがアメリカで起きているという噂が入ると同時に、富士弦楽器からのギター加工依頼があり、この仕事からギター生産にかかわるようになる。ほどなくしてマツモク独自で生産を始め、ギターのデザイン・製作業務を任される。

1960年代 工場前にてデザインしたギターと。(中央が林氏)


思い出すことは、ハーモニーのセミアコをもとに、原山氏と開発作業をしたことで、林氏は石膏の型取りが得意で、ギターを石膏で型をとっていた。その作業はその後も林氏の仕事だったとのこと。
しかし林氏は「これらの作業はいかにうまくコピーするかということですので自慢にはなりません」という。

その後も机の前でじっとしているのが苦手だったこともあり、正式な図面を描く前に、自分で作った方が早いと、デザインしたらすぐ自分で作るということをやっていたそうだ。

最初に自分で手掛けたモデルはUNICORD社より依頼されたレスポールのコピーだったそうだ。それは1枚の写真から製作。それはまだ、トップがまだソリッドではないセミアコースティック・レスポールであったが、本物と寸分たがわない出来だったそうである。

1960年代終盤?ギブソンのレスポールはあまり人気がない時代に、このコピーモデルが国内外のレスポールコピーのはしりで海外で大ヒットする。ほどなくして日本でもコピーのブームが始まる。

1977年には、代表作であるPE-1500をデザイン・設計・製作。
人のコピーではいけないという思いが強く、いつか自分で誇りを持てるデザインのギターを作りたいという思いがあった林氏は生産性と弾きやすさを両立したい。製造する側のことも考え、出た答えがレスポールとストラトキャスターの中間の特徴を持つギターだった。


ネックジョイントはストラトキャスターのようにデタッチャブルで、フロントピックアップ部分でボルト止め。さらにレスポールのように接着するという手法がとられている。サウンド面では、林氏の好みでストラト系のシングルではなくハムバッキングとした。しかしトグルSWの位置は操作性を考えストラトと同じような位置としたとのこと。
デザインは幼いころからバイオリンに非常に興味があったとのことで、クラシックなデザインを見事にエレキギターと融合させたのである。
ヘッドには林氏のクラフトマンネームであるH.Nobleの名前とパテントNoが入れられた。


PE-1500を製作、完成を機に、利益や売り上げ重視の大きな組織と、人のデザインの流用で会社を維持していくことへの道義的責任感などのギャップを感じていたこと。自分のオリジナルギターをやってみたいという思いから林氏はマツモクを退社。 林信秋ギター工房(現ATLANSIA INSTRUMENT TECHNOLOGY LTD)を設立。




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(林信秋氏インタビュー/2013)
1960年代の日本製エレキギターの取材に来日した研究家のフランク・マイヤーズ氏からの質問にお答えいただきました。




Q:ギター生産の昔の記憶は?製法などは?
米国のGUITARを参考にして作りました。
製作方法は、汎用木工機械を駆使して、MAKER独自に考え、作りました。他社も多分同じでしょう。以後、量産方法確立のため、専用機を開発して行った。たとえば、一つ一つ穴を開けていたのを、6ケまとめて一度に開けるとか、自動化するとか色々です。

米国と日本のGUITAR製造会社の体質の違い。米国では、楽器が本当に好き、音楽が本当に好きと言う人が、会社を立ち上げている。その点、日本は、儲かるという、ビジネスチャンスを求めて、木工業の延長線上でGUITARを製造している。両者の動機が大きく違っている。
下請け業者を使っている。文化が違うので、仕方のないことかもしれないが、GUITAR音楽への情熱、理解度に大差がある。年配の資本力のある人は音楽のことは全く分からないけど、お金もちです。そう言う人が会社を立ち上げたケースが大方でしょうね。


Q:マツモクの記憶は?
MATSUMOKUはもともとSINGER MACHINEのテーブル、及びキャビネットを作るSINGER資本の入った会社
SINGERの権威が損なわれるとのことで,SINGER BRANDでGUITARを作ることは一度もなかった。
以後、ミシンはテーブル、キャビネットを必要としないタイプのものが主流となり、その需要がなくなり、工場内はGUITAR生産一色となった。私は入社当時、ミシンキャビネットのデザインに携わっていたが、GUITARブームの到来で、そのデザインと、プロトタイプの試作に従事した。
危険な木工機械の使い方は、原山さんに教えてもらいました。私の先生です。
NAMMショー,FRANKFRUT MESSE出品用MODELを通年自由に一人で作っていた。開発プロジェクトのような組織はなかった。マツモクは独自輸出販路を模索していたが、人材、力不足で、軌道に乗るまで苦労したようです。自己BRANDの直接貿易の悲願は達成しましたが、赤字続きと、時間切れで、会社の維持発展に、繋げることが出来ず、閉鎖になってしまいました。他のGUITAR会社より先に閉鎖になったのは、社員の高齢化で、人件費が他社より会社の大きな負担になっていました。
マツモクの生産形態はOEMが殆どでしたが、1970年後半ごろから、国内向けフォークGUITARのWESTONEが登場。反戦FOLK ブームに乗った。

Q:昔の日本のギターは芸術的です。なぜ日本のギターは面白いデザインがあるのですか?意見はありますか?
おっしゃるように、初期の日本のGUITARに、少し芸術的なものがあるかもしれないが、USA ギターを、より一層発
展させた機能美がどこかにあるでしょうか。それから、SOUNDに何か進化があったでしょうか。私は疑問に思っております。
当時、皆、独自のものを作っていたのは、COPYものを作ることに罪悪感があったからでしょう。自分で考えるしか方法がなかったのですね。追いつめられれば、人間は何か創造するのでしょう。こと私の作品には自分で満足するものが一つもない、残念で、恥ずかしいものばかりでした。あの頃の自分はまだ、未熟でしたし、若い私に出来るわけがありません。
ずっと後になって作った自分の作品で、ロングセラーを続けているPE-1500は、いろいろ経験を積んでからのことです。BODYとNECKの結合は、GIBSONのように難しい方法でなくとも可能と言うことを立証いたしました。所詮,PEはGIBSONとFENDERの良さを集約したものに過ぎないのです。先人の偉業の延長線上のものなのです。

他国の人から見ると、初期の日本のGUITARは異質で、興味深い雰囲気がするのかもしれない。それは一時期だけのことです。COPYものに走り出したので続きませんでした。いずれにしても、GIBSON FENDERを超えているものが何もない。売れるものを作ればいい、つまり、一般の人の発想次元でGUITARを作っていればいいという、(それはCOPYもののことですが、)安易な選択をしてきたので、継続的に発展させる土壌が生まれなかった。今後のGUITARのありかたとして、これでは問題と考える。本物に似ていれば似ているほど人気がありました。こんな風潮の中で,ORIGINALITYで頑張ったMODELもありました。

●日本のGUITAR界が衰退したのは、COPYものを作るという、安易(イージー)な道を選択したからと私は考えます。
●COPYものGUITAR製作と言う延長線上にいれば、とりあえず会社は安泰ですが、何の展望もありません。歴史に残るようなものは誕生しません。ただ、お金を稼ぐだけです。
●後進国はこういうCOPYの仕事には入りやすいのです。それが故に、彼らに仕事を奪われ、気が付いたら、日本の工場のラインが衰退していたのです。
COPYものでは、価格競争が最優先です。安いところに仕事は流れます。デザインの競争はそこにはありません。付加価値を持たせることはできません。
●この衰退の原因は創造、つまり新しいGUITARを創作するという道を放棄したからです。新しい発想のGUITARをどんどん、音楽業界にアピールすべきでした。
●日本のOLD研究と言う延大な仕事は、分析により、日本のGUITAR界の衰退の原因を明かし、警鐘を鳴らすことにもつながる仕事なることでしょう。もう遅い感は否めませんが。ここまで衰退するとは誰もが予想だにしなかったのです。
●環境が変わり、いままでいた生物が居なくなったのと同じように、日本のMAKERは、環境変化に気が付くのが遅かったことと、展望がなかったことかもしれません。
●過去の日本のGUITARに興味があるとのことですが、私の昔の製品は、経験不足で、感性が未熟な時代のものばかりで、恥ずかしく思います。もっと何とかならなかったのかなと思うものばかりで、自分の感性を疑っています。
●今の私は、先人の偉業を研究、理解した上で、それを一旦否定しないと、新しいものを創造することが出来ないので、参考資料として見ることのみです。
●私はクリエーティブを自分のライフワークにしてきましたので、過去のものの収集が殆どありません。残っているのは僅かな写真です。
●マツモクは、当時、作れば売れるという時代でしたので、夢中で、いろいろなものを試作しては、行けるとなると量産しました。米国から、BAYERが沢山来ました。
そして能率よく生産をするための設備投資をどんどんしました。
●当初は、他人のものを模倣して、それでビジネスをすることに強い罪悪感がありました。
●いつの日かそれが崩れ、気が付いた時に、我も我もとCOPYものを作るようになってしまいました。私もGIBSON, FENDER GUILD、GRETCH、RICKENBACKER、HARMONY、KEY 、ACOUSTIC などのCOPYを一生懸命いたしました。
●米国のあこがれのミュージシャンが,GIBSON,FENDERをもっていれば、その人の曲をコピーしたいのだから、楽器も同じものを持ちたいと発想するのは自然の成り行き。しかし、本物が買えないのだから、せめてそのCOPY品で我慢しようと思う人が多くなり、その結果、COPYものの需要が高まり、日本のORIGINALは軽視、無視され衰退しました。
●米国UNICORD社から、LES PAULの写真がマツモクに送られてきました。その写真をもとに、それの最初のCOPYを私は作りました。それは大ヒットしました。益々、COPYもの礼賛の風潮が加速され、ORIGINALは衰退期に入りました。
●LEO FENDERの偉業,ワンピースNECKのCOPYに成功したのもそのころでした。MATSUMOKUにいた私が試作をし、原山ギターの原山さんが大量生産の技術を確立しました。彼の技術を超える人は、その後何年経っても、現れませんでした。現在では、このNECK生産も、数値制御のNCルーターで、あたりまえになってしまっていますが、それを40年も前に(今からは約60年?)考案した、LEOは凄い人です。
●原山さんは私の心の中のもう一人の LEO FENDERです。彼と出会っていなかったら、現在の私は何をしていたでしょう。GUITAR製作家ではなかったでしょう。もう、50年以上のお付き合いです。同じ写真の趣味の会にいます。
威張らない人です。探求心の凄いところをずっと、見てきました。残した作品が少ないことが残念でなりません。FENDERのCOPYでしたが、ハラマーを100本くらい作ったでしょうか。
何故もっといろいろ作らなかったかの疑問には、推論を私の経験を踏まえて、別の機会にお話ししたいと思います。
●LEOの威張らない、控えめ、ひたむきな人間性が日本人の共感を呼んでいます。それとなんといってもすべてのMODELが非の打ちようのないものです。
彼の若かりし頃からの作品が、後にマイナーチェンジを加えることなく、完成されていたことが驚異です。美的センス、合理主義、現場主義、デザイナーであり、エンジニアなど、そのすべてが凄い。それに比べて、自分の作品が、特に初期の若いころの作品が、美的でないのです。だから、自分の過去の作品を誇らしく思えないのです。あなたの取材には戸惑いがありました、何を述べたらよいのか分からないのです。
そのLEOに私は、FRANKFURTでお会いすることが出来ました。
そこで彼に私はいいました。“過去にあなたの作品のCOPYをしたりしましたが、あなたから多くのことを学びました”。と伝えました。彼は無言でした。奥様が傍で聴いていました。
●ATLANSIAをスタートしてからも、生活や、経営に困り、COPYものを作った時期もありました。堂々と胸を張れることは何もありません。
●後進国が一生懸命やっている、いろいろなCOPY製品を人々は非難しますが、日本のGUITAR史には、それと同じ汚点が沢山あります。日本が先進国になったからといって、後進国の彼らを非難できる人はいないはずです。その悲しい歴史を消し去ることは出来ません。
●日本のMAKERは、いつの日か、いい楽器を残そうなどと思わなくなり、お金儲けに奔走するようになってしまいました。経営に必死だったことも否めません。
●日本ではORIGINAL GUITAR製作だけで会社を維持していくことはとても難しいと常日頃感じています。私は今でもNECKの下請け生産をしております。販売は米国のAP社です。FENDERのライセンス生産です。この仕事は生活の為です。これがなければ、ATLANSIA GUITARの生産も不可能に近いです。未だに私のやっていることは趣味の領域ですね。
●現在でも、日本で,COPYもの製作で成功している小さな工房はいくつかあります。皮肉にも、COPYものでしたら、小さな工房でもやっていけますが。
●米国でもCOPYで、ビジネスに成功したMAKERがあります。やはり、米国でも同じ現象はあるのですね。物まねで、歴史に残すことが出来るでしょうか。疑問ですね。
●デコレーションを施したり、木目が美しい希少材を使っただけではGUITARの本質は何も変わらないのです。機能や音質は変わらない、材料に資金を使っているだけなのだと気が付きました。
●我々は天然資源の活用について、一歩踏み込んで考えなければなりません。自然保護の観点から、調和がとれるよう努力する必要があります。先進国が資金力で、世界の資源を貪る構図は、我々製作家に突き付けられた課題ですね。
●日本は、横並びであることが安心できる社会。先んじたり、秀でたことをする人、変わったことをする人は、生きにくい社会です。海に囲まれて何処にも出られない、小さな島国だからでしょうか。
これは無意識の中、(潜在意識の中)にあると思っています。島国であることのせいにしたくはありませんが、こういう社会から、歴史に残るGUITARは生まれるのでしょうか。
●優秀で、意欲のある研究者は米国に渡ります。
そこは自由で、豊で、寛大な人々の社会と認識しているからでしょう。
こういう社会ですと、GUITARも新しい発想でやりやすいと想像します。
何と言っても楽器を評価してくれるミュージシャンが圧倒的に多いですね。
●日本のGUITARは新しい発展をすることが出来るでしょうか。外国ではプライドを高揚させることがあたりまえと理解しています。この国は控えめ、奥ゆかしさが美徳とされています。野球選手の松井のような人が、精神の美しい人なのです。日本を理解していただくための私見を述べさせていただきましたが、別の観点もあると思いますので、参考までです。

最後に、貴方の研究が、過去を正しく分析し、それが、今後のGUITARの発展に大きく寄与することを願います。自信を失いつつある多くの日本の製作家に、どうぞ大きなエールを送ってください。辛口が多かったかもしれませんが、思った通り書きました。
ありがとうございました。
ATLANSIA  林  信秋( H.Noble )  2013-05/23


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追記


(神田商会 奈良さんの思い出)
奈良さん、ならちゃんと言っていました。
私は、生GUITARのWESTONEの立ち上げの時、時々、神田に赴き、ならちゃんと打ち合わせをしました。
みなは彼の行動の一つ一つに注目。好感のまなざしで見ていました。女性たちも。
大きな、大きな靴が放り出したように、オフィスの隅に。
誰かが、この汚い靴は誰のだー。と言って、みなで大笑い。 大男が、ペコっと「、すみません」と言っていた思い出。
奈良さんは気持ちのいい男でした。英語も堪能でした。小嶋会長(社長時代)に激高して・・・
残念なことをしてしまいました。

(昔の楽器業界)
昔の楽器業界の社長たち。
単にビジネスチャンスを狙っての人たちで、楽器が好きということではなかったようです。
一線を越える寸前ギリギリのところで一攫千金を狙ってた人も。言いにくい話は沢山あります。
そんな中、唯一音楽家だったのが、荒井史郎氏だったのです。マツモクとビジネスをするようになってからは、私の推測では、100倍以上の規模拡大が出来たととらえています。英語が堪能であったこと、物怖じしないで、強気で、世界中にビジネスチャンスを探しまわったことが大きな要因ですね。
英語力は通訳が出来るほどですので、かなりのものと定評です。英語力が故の情報発信力の方を高く評価いたします。

(PEを取り巻く状況とPEへの思い)
荒井史郎氏が、「PEはわしがデザインしたものだ」と、電話でデザインの当事者の私に言った言葉です。
図面も書いたことのない、ほかになんのデザインのMODELのない人の言った言葉です。

PEを俺が俺がのオレオレ問題について思ったことがありました。
PE-1500 を作って、私はマツモクを退職しました。それ以降にいろいろな人が、それを土台に,HEADを変えたり、よりLES PAULに近いようなものにしたり、展開をしました。以降のものをさして、オレオレ現象がでてきたのかもしれません。
自分の意見を少しでも反映できれば、オレだよ、オレだよ、ということになるのかもしれません。

シンコーミュージックのアリア特集(PE)にはH.Noble(林信秋)を抹消する意図を感じます。
それが,雑誌社のお意図か、新井貿易の意志なのかわかりませんが、そのことに対し、不快感を爆発させた私からの行動があったたでしょうか。なにもありませんね。 むなしいのです、限りなく。
あれほどの大々的な特集本なのに、作為的ともとれる、読者を欺く、知りたい肝心な部分の、欠落と削除?
歴史を語る内容なのに、製作者なしで、その歴史が語れるのでしょうか。(俺を出せなどというニュアンスではありません、誤解なきよう)。 
どうして抹消したいのか、私の名が出てくることがどうして不都合なのか、どなたかに聞いてでも、教えてほしいとも思いました。このようなことを言えば、雑誌社の言い訳だけが聞こえてくるようです。
嘘も100回言うと、ほんとになる。誰かの名前に刷り変えたいのでしょうか。
今までに、何人もの人が、自分がやったといっています。その人たちには、残念なことに、証人がいないのです。私には、今でも何十人もの、証人がいます。
雑誌社はスポンサーに気を使い、真相報道をせず、時には捏造、また、面倒なことにはタッチしない、読者はなにも知らず記事を読み、翻弄されている。 
真相を知る人はあきれ果てても、抗議することはない。モンスターに竹やりで刃向かうようなものだから。
私はマツモクで、たった一人、自由人でした。ギターの試作を毎日していました。
PE-1500は私が最初から最後まで、すべての周囲の雑音を排して、設計し、製作し、誰の手にも汚染されていな、完全単独人デザインのギターなのです。
躊躇していましたが、今、わたしは、本物のPEを作るしかない、と決意しています。それしか、この気持ちを晴らす手段が見つかりません。残された時間は、後わずか。
私はもっともっといいものを創ります。PEを超える,PEを。

原山さんも、私も、マツモクに在籍し、そして退職しましたが、二人とも、そのやめた会社から、退職後も、仕事を頂いたり、いろいろお世話になりました。通常ありえないことです。
私たちにとって、このことは仕事人生の最大の誇りなのです。





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林氏の秘蔵アルバムより(1960's〜1970's 試作品)PROTOTYPE GUITARS

1970年前後と思しき貴重な試作品の数々。これらが量産され松本から世界に旅立っていきました。
貴重な写真の数々です。



















ARAI & COMPANY, INC., 3.3, SONOICHO, NAKAKU, NAGOYA, JAPAN
右はベンチャーズ使用と書かれたモズライトの写真。

右はヴェ



1973 林氏(中央) 倉橋氏(左端) 青柳氏(上段中央) 後藤氏(上段右端)





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最後に・・・・・


マツモクは、他のギター製造メーカーとは成り立ちが異なっていた。
ミシンキャビネット製造と二束のわらじで始めたギター製造でしたが、時代の流れでそれがメインとなった。
生活スタイルの変化により、ミシンキャビネットはもう現存するものが少ないでしょう。
しかし、24年間でマツモクが作ってきたエレキギターはまだまだ数多く存在します。
その24年間に作ったギター達は、日本や世界の夢見る子供たちやミュージシャンにも大いに夢を与えてくれました。
突然会社が無くなり、最後まで働いてきた方々のその後のご苦労は想像もつきませんが
素晴らしいギターを残してくれたことに最大限の賛辞と、「ありがとう」の言葉を贈りたいと思います。


マツモク GUITARSよ永遠に・・・


2018.1.19
文 / TAD館長 
Copyright(C)2018All Rights Reserved.     
***************** 無断転載を禁じます *******************
 



(参考資料/引用)
JAPAN MUSIC TRADES誌 1986/5   
信濃毎日新聞1987/2/16
JAPAN VINTAGE誌

(協力)敬称略
QUEST INTERNATIONAL LTD 代表取締役 大和俊夫
WWW.quest-md.com
ATLANSIA INSTRUMENT TECHNOLOGY LTD 林 信秋    
元原山ギター製作所 原山則勝

(資料協力) 杉浦智 飯田幸浩 林信秋 大和俊夫 原山則勝  田中康司
(協力) 田中康司 田村進 横内照治


2022.3.6
20















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マツモク工業株式会社

(ミシンキャビネット製造メーカーからギターメーカーへ)

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