松本GUITARS 塗装に生涯をささげた天才職人 山崎智久
2012年にたくさんの関係者とお会いして大きく進展した松本GUITARSも、当時のお話をお聞きできる方々はご高齢になり、お話を聞く機会が殆どなくなってきましたが、2021年6月に富士弦楽器創業年から86歳で引退する年まで、塗装一筋に生涯現役を貫いた職人で、松本市のギター発展の歴史を経験してきた山崎智久氏にインタビューをさせていただきました。
山崎氏は知る人から「塗装の神様」と称されるほどの技術者で、塗装に関する豊富な知識と経験からアドバイザーとしても長年後進の育成に尽力されました。
山崎氏は昭和10年(1935年)1月23日生まれ。松本市からは遠い坂北の母子家庭で男3人兄弟の長男として生まれ育ち、家庭が貧しかったため中学を卒業後、家族を養うために松本市の塚田製作所に15歳で就職。好きな絵と関係するということで職業安定所から勧められたのが塗装工を募集していた塚田製作所だった。
塚田製作所は六九商店街の北(当時の西堀)の旧井上の場所にあった会社で、造り酒屋をやめてジャノメやジューキのミシンテーブル、キャビネット、東芝のテレビキャビネットなどを製造する50~60人くらいの会社だった。そこで仲間3人と見習いを経て塗装の職人となる。
当時は松本の中心地にいくつも大きな木材加工の会社があり、渚のマルシメ(信州木工)から独立したのが松本木工(後のマツモク)となる。
(余談ですが、昭和7年生まれの私の父も塚田製作所に勤めていた時期があり山崎氏とは同僚の時期があったと思われますが、父は大型トラック運転手だったため直接のつながりはなかったようです。父に生前に聞いてみたところ、山崎さんって名前は聞いた覚えがあると言っていました。時を経て息子が会っているのも不思議な縁を感じます)
1960年には、松本市三才(現在の筑摩)で富士弦楽器が創業した。バイオリンの製造でスタートしようとした富士弦楽器だったが、市場調査の結果すぐにクラシックギターの生産に舵を切ったのは有名なエピソードです。
すぐに塗装職人が必要になり、先に入社していた先輩の誘いで、山崎氏は同年の8月26日、25歳で創業間もない富士弦楽器に入社する。2代目工場長の丸山氏の去った後に3代目の工場長に就任。しかし根っからの職人気質で人を使うという立場は性に合わなかったとのこと。
1969年に独立し、富士弦楽器初代工場の場所で有限会社山崎塗装を興し富士弦楽器の仕事一筋で塗装業務を請け負う。
晩年はGibsonやFenderの製品の塗装リペアと後進の育成に従事したのち、Sugi Guitarsでハイエンドにギター&ベースの塗装にも従事。年齢もあり身辺を整理したいと思いから惜しまれつつそこで最後のキャリアを終える。
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インタビューアーは横内照治氏、TAD館長
私も、何度も機会があるたびにお会いしておりましたが、上記のとおり現役で働かれていたのでゆっくりご自身のお話を聞くのは初めてです。
山崎氏は創業からほとんどのギター、ベースの塗装を担当されておりますが、以前持ち込んでみてもらった1960年代のギターの塗装を見て「これは自分がやった」「これはやってない」と塗装を見ただけで判別できるのには驚きました。
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山崎: 少年時代は家庭の事情でね、今でいうシングルマザー。男兄弟3人でウチは家計が大変苦しくてとにかく中学を出たら働かざるを得ない。15歳から25歳まで塚田製作所にいました。
塚田は昔の井上、西堀にあった会社。元は造り酒屋だったらしいけどそれをやめて木工を始めて、ミシンテーブルをやりはじめた。ジャノメとジューキでした。
あの頃は、信州木工があって、塚田製作所があって、信州木工から分かれたのが松本木工(マツモク)要するにあの頃はマルシメって糸を採ってた。
塚田製作所はジャノメとジューキの下請け、それでテレビがだんだん普及するようになってミシンテーブルよりはテレビをやった方がいいんじゃないかということでミシンを減らして東芝のキャビネットを増やしてた。昭和30年頃の話。
まだテレビが出始めの頃で高級品で今みたいにプラスチック作るのではなくてかなり手間をかけてね、いい値段になった。
そのまま勤めていたけど、とにかく塚田はねえ・・経営状態が悪くて給料の遅配がもう3か月はざらで、賞与なんかも出て半年くらい。先付け小切手で。(期限が来ないと現金にならない)しかお給料は分割。1か月を3回くらい。もう悶々として働いていたわけ。
うちは坂北で蒸気機関車で50分通勤したんです。
中学を出てすぐ、私は絵が好きで、あの頃は職業安定所って言ってたけど、そこに職を探しに行ったらこういう仕事があると。工作が好き、絵が好きということで職安の係官から、絵だったら塗装の仕事、工作だったら建具の仕事が住み込みであると。塗装の方は通勤が可能だと。ウチでは百姓をやってたんでやりながら通うのが一番いいってことで塗装を選んだ。
それ依頼ずっと塗装。
とにかく終戦直後の就職難の時代だったから、それこそ混乱期で、本屋の鶴林堂は受けたかな?結果的に絵が好きだったら長くは務まらなかったと思う。その一つだけ就職先はあったけどあとは仕事がなくて卒業しても家でぶらぶらしてた。
ある梅雨時に近所の農作業のアルバイトに行ってて、母親から雨が降れば農作業もないからこの機会に仕事をみつけたらどうかと。それで松本に出てきて、それで塚田に決まったんだけどね。
塚田に入ってからは養成工で5名いて、1日70円の安い給料でね。
日本ビクターにいた河西っていう技師が塚田に来てて、俺たちは中学卒業生だから塗装の下地作りを教わった。
その時に坂北から松本までの定期代が520円。そういう時代です。いくらも手取りがない。
そうしているうちに、富士弦楽器が昭和35年の5月2日だったかねえ?始まって、だんだんやっているうちに拡張して20人くらいで牛小屋のとこでやってた。
ここが富士弦楽器創業の牛小屋だった社屋
塗装の経験者が欲しいってことで、一人先に塚田から高橋ってのがやってて、私は部下だったんで、山崎君どうだ?って声をかけられて1960年の8月26日に入社した。
フジゲンの創業が1960年の5月2日。25歳です。
その頃の富士弦楽器の初代工場長は横山さんです。一番先にバイオリンを作るってことでフジゲンがスタートした。やりだしたけど結局うまくいかなくて、それよりはギターってことになって。
1960年にはじめたバイオリンの木型。
諏訪に全音ギターってのがあって、上土の竹田楽器で1本買ってきて、私は3か月のブランクがあるから横内さんから聞いた話だけど、それをバラして作って、木工展示会で賞をもらった。
木工職人の石黒さんは建具屋。上條さんとか宮島さんとか私よりはずっと年配の人。杉本さんも誘ったらしくて。杉原さんは松工の定時制。定時制の人が5人くらいいたかね。
全音には教わったことはありました。我々も上諏訪まで見に行った。
まあすごいねえ、あそこ傾斜地が多いんで。チェーンブロックでギターがずーっと流れているのを見たとき圧倒されちゃってね。そういうところを見学したんですよ。
下請けじゃないからクラシックギターは全音に納めたことはないです。技術指導を受けた。
それでね、あちこちから技術を吸収してきてギターが始まった。富士山のマークのがギターのスタートです。
これからはギターの時代だって三村社長が。すごく勘のいい社長で。
俺たちはアコースティックギターをどんどん作って、作ったはいいがなんと音階がずれててギターにならねえってことが分かっちゃった。しかもそれが1000本もできちゃった。
小売店から全部帰ってきた。
それで裏っていうか西の空き地だね。そこに最後みんなで積み上げて。あの時の気持ちは忘れられないけど燃やすしかしょうがないから。で、これではいけないということで音階は当時の横内専務が習ってきて、しっかりしたものにして始まったんだが、そうしているうちになんか格好がついてきたんだね。
三村社長が学生の時の友達だったか・・丸山正さんを誘って。その前にね、牛小屋が手狭になって三才に工場を作った。それからもっと人材が必要になって丸山さんを誘ったわけ。ところが来たからと言って全てがうまくいくわけじゃないです。なにしろ創業期ってのはいろいろあってねえ・・。丸山さんだってギターの職人じゃないから。泉精機からきたんです。それでやってたんだけど、今度フレットは問題ないんだけどボディに問題が出てね。クラックが入っちゃった。早く言えば技術面は全て未熟です。
創業地すぐ近くの三才工場。
それで東京のテスコの下請けをやったんです。グヤトーン(東京サウンド)もありました。
エレキだから電気系統に問題があって、丸山さんが工場長としてテスコに行って松田氏から技術指導を受けてきたんだけど、その時に個人的な関係ができたんだね。フジゲンもまだ順風満帆ってわけではなくて技術的な問題があったり、なんだかんだしているうちに松田さんとうまく話ができて、おれ(丸山氏)がやるってことになったんだね。幹部社員を10人引き抜いて行っちゃった。安曇野の三郷にテスコ弦楽器ってのを創立して。
いやあ・・三村社長もえらく怒ったけど。そういう人だったんだよ丸山さんって人は。
確かに引き抜かれた10人の腕は良かったかもしれないけど、精神的なあれはね。同類神話の法則じゃないけど、結局テスコはああなったんだけど。
我々残された者はねとにかく苦労した。それで三代目工場長になった。
丸山さんが来たのが昭和36年です。三才に工場が出来てからすぐ来た。37年に辞めた。
それで結局私が工場長のようなことにだんだんなってしまったんです。それまでは役職になる気もなかったんだけど。
みんな苦労してねえ。今なら大問題になるかもしれないけど、大屋さんって人がいて、あの人のアパートに上條さんと3人で泊まり込んでそこで生活して、とにかくめちゃくちゃ仕事した。100時間以上だった。松工の入り口だった。
通いだったけど、ウチから通ったんじゃできない。泊まり込んで1週間に一回ウチに洗濯物持って帰って。そのようなことです。
それを専務や社長が見ててくれたんだね。自然に管理職になっていったんだけど。
そんなわけでマーケットがだんだん広がってきてね。ジョージさんって人が来て「これからはエレキがいいからエレキをつくらないか」って、それで技術指導を受けて作り出して、そしたらだんだん格好がついてきたわけね。ところがすんなりいったわけじゃなくて、それがその後もボディに問題(乾燥不足の塗装クラック)が出て、横内専務がマツモクの技術者で百瀬さんという友人がいて、いろいろ話して最初はそのくらいだったけど、それから横内さんが三村さんと話したんでしょう。
ジョージ氏のブランドSTジョージのギター(ひ孫マイケル氏提供)
どうもこれからは、こんな狭いところで乾燥するよりはマツモクに外注しようということになったと思うんです。それでマツモクと取引が始まったんだけど、マツモクはボディの乾燥から塗装上がりまでフジゲンに納品してくれる。技術があるから非常に品質が安定していて順調に来ていたわけです。それでネックとボディはマツモク、フジゲンは組み立て。美味しいところをやったわけだね。
ところがだんだんエレキがブームになってきてマツモクも下請けだけしているわけにはいかなくなった。自分のところに技術もあってミシンもそんなに良くなくなって。それで完成品を作るってなって、あの頃はコロムビアとかビクターというブランドで始めたらしいんだよね。それでフジゲンに納品するボディとネックがだんだん数が減ってきちゃった。
富士弦楽器がOEMに出していたギター(左)とビクター。
(当時のフジゲンへの納入価格が1本分で500円だったそうで、マツモク側からすれば自分で売れば何千円のため話にならなかった)
マツモクは技術があるから自分たちでやろうと。それでフジゲンへの納入が減らされたらフジゲンじゃ困って大変なことになる。それでこの狭い工場じゃとても補いきれない。それで平田に工場を建てた。
エレキのブームやらまだ技術も未熟でとにかくごちゃごちゃで創業期はとにかく大変だった。
FUJIのマークのあとはDemianだったと思うね。ヘルマンヘッセの小説かなにかで三村さんやりだした。とにかく激動の時代です。
1961〜Demian
このクラシックギターはFUJIブランドの直後に出たオリジナルブランドで最古の特徴を見ることができる。
(現存するデミアンをみて)このデミアンのラッカー塗装はこんなにクラック入ってるんだねえ。今のお客さんはこのクラックがいいんだってねえ。マイナス20℃のスプレーかけて。
当時はラッカー塗装です。ウレタンからポリになった。うんと工程が省けるもんで。ポリも慣れれば生産性はいいんだね。平田の時はもうポリだった。三才の時は全てラッカーです。いくらかウレタンはやったね。三才で塗装吹いてた時は作業場の水洗なんてまだまだなくて、廃棄の換気扇があってね、外に向かって排気してた。それは近隣の家ではえらい騒ぎさ。自分たちはいいけど。これじゃいけないということで平田に移った。でもそれでもすべてOKってわけにはいかないです。マーケットには左右されるし技術的なこともあるし、まあ10年間は大変だったんですよ。
平田の工場を作った昭和40年(1965年)の時は通ったから在籍していました。
それでギターだけ作っていられれば良かったけど、ギターが落ち込んじゃってベッドやホームバー、スパイスラックだとかまあいろんな木工製品をやりました。みんなモノにならなかった。
結局赤字が増えて三村さんが嫌になって。あの人、元々商人だからモノをつくるなんてことは全然。 モノを作るってことは何十年とは言わないが木材を乾燥してってところからで、商人は仕入れてこっちからこっちにやるってのだから、儲かっているときはいいけど、どんどん赤字が増えてきちゃって。だからマツモクに頼んでいた時が一番儲かったんでしょう。私もアメリカに行かしてもらって。23だったか24歳だったか、頑張ったっていうご褒美でね。そういうこともあったけど大変でしたよ10年間は。
アメリカのジョージの店にて。山崎氏。
それで俺が辞めたのは、業績が悪くなってくると、ひどいもんだね周りもね。フジゲンの下請けの外注も何軒もあったんだけど、外注仲間が話してくれたんだがフジゲンは今にだめになるかもしれん。杉原君を抜くじゃねえかって。話も外注仲間の飲み会の時にある人が話してくれた。それくらい親会社としても大変な時期でした。資金繰りも。
それで三村社長がいやになってやめちゃった。二代目の社長に横内さんがなった。
横内さんになってから結局ね、横内さんの持ち味が出て、社員との気持ちがマッチしてね。
横内さんは人の気持ちを掴むのがものすごくうまい。
とにかく、昔塗装の下請けをやってる仲間が、会社に対してうんと不満がある同業がいて、どうしても文句が言いたいが言う機会がなかったが、今日こそは言ってやろうと乗り込んでいって、当時の横内専務と話しているうちに30分もたたないうちに文句言うなんて気持ちがすっかりなくなって帰ってきちゃった。あの人だけはどうしてもだめだと。それくらい相手の気持ちを掴むのが上手い。
だから三村社長がいなくなった後、全社員の気持ちをうまくくみ取ってそれで全体が一つの気持ちになってそれで環境が・・第三のブームだったかなあ?ウエスタンギターが。それともう一つ取引先の星野楽器。海外はあそこ一本に決めたことが上手くいったんだねえ。
あの時に土台ができていい雰囲気になってねえ、素晴らしい雰囲気になって。
失敗はモノにならなかったけど、その時の経験が横内社長の財産になっていろいろ自分の考えが上手く合わさって経営が上手くいったということだと思う。
(海外ではナンバー1の星野、国内ナンバー1の神田との付き合い。1960年代の神田商会とは、他の商社と一緒で数ある取引先の一つだった)
神田商会とは古くて、最初のころからで、近藤さん(兄)が社長で弟がバイオリンベースを持ってきた。その時は小嶋さんはまだ常務。後の社長。
バイオリンベースで思い出すのは、あの頃は激動の時代でね。そう、ヘフナーのコピーです。
現物をバラして構造を見て安く作って。俺の同級生で元電気工事屋の滝沢ってのを誘って彼も合板考えてね。熱をかけて曲げてプレスして安く作っちゃった。器用なんです。
ヘフナーも合板でした。コンマ何ミリかの板をタテヨコにして熱でギューッと。とにかくフジゲンでやったのは全部合板です。安く作っちゃったからドイツの仕事を取っちゃったかと思った。
(実際には当時十数万のヘフナーと3万8千円のグレコとではマーケットが違って、ヘフナーは誰でも買えるものではなかったのでライバルにもならなかった。しかし日本で唯一のバイオリンベースのコピーはビートルズ人気で大ヒットとなる)
塗装は昭和45年から朝から晩までやったんだけど、管理職になってからはそこまではやっていない。
サンバースト塗装は慣れれば誰でもできます。絵が好きだったことがだいぶプラスになったかなあ。調色とかね。この色は何と何の色を混ぜればいいかってのが頭の中でできちゃうわけね。早いわけ。
創業時より山崎氏は数々の塗装をこなしてきた。
フジゲンを退職したのは昭和44年です。45年からは自分でフジゲンの下請けとして始まった。
まだ牛小屋を改装した創業時の社屋があってそこを借りて塗装した。
さっきも出たけど、あの時は外注がフジゲンの足をひっぱってねえ・・塗装やってる杉原君を抜くじゃねえかとか、フジゲンはつぶれるんじゃねえかとか飲み会の時に話が出てた。三泰さんとか西澤さんとか、5~6軒あった。そういう人たちは三土回っていって飲み会があるんですが、第三土曜日に集まって飲もうじゃねえかと。そうやっているうちに西澤塗装さんのおやじさんがそういう噂が出たと。懇意だったんで話してくれた。それでこれはいけないってことになって。
こういう一つのモノを作るのに最初から最後まで同じパイプのようにずっと行くならいいんだが、塗装だけはどうしてもパイプが細いんです(流れがボトルネックになる)いつもそこがネックになっちゃって詰まる。どこか塗装やるところがねえかって。フジゲンもその時はものすごく困っているときで俺は工場長って立場でやってたけど、こんなことやってるよりは自分でやれるから、いっそのこと塗装っていうキャパシティを広げてやれば水がスーッと流れるじゃねえか。と俺自身が性格的に人の上に立ってひっぱるということが不得手な人間だったもんで、少人数だったらいいけど会社も大きくなっていて。
そういうことも考えてその時期、三村さんが辞めたあと(独立)横内さんには申し訳ないと思ったけどね。
今のここに家を建てるにも、実家に一晩泊まっておふくろを口説いて、今考えればおふくろに悪いことしたと思うけど。横内さんは人柄が良い人で、「山崎君、土地代が高くていけんと。土地代取られたら家が建たん。それよりはおれのところ貸せるで建てねえか」ということでここに建てた。
そういうわけで横内さんには足を向けて寝られないです。
昭和45年、自立して20年お世話になりました。
20年やったけれど円高がものすごくなっちゃって、当時の上條社長からとても皆さんの面倒は見れないと。早いうちに手を打とうじゃねえかって、強制ではないけど会社に入る人、それでもいいと自分でやる人に分かれて俺は中に入ってお世話になった。来てくれということで。
ただその時はもう55歳くらいでね、その頃の会社の制度で定年がね。嘱託になってずっとお世話になった。
嘱託でフジゲンに入った皆もどのくらいかなあ・・会社の方針で一旦整理すると。俺もほんの何か月か離れたことがあるんです。そしてウチに失業保険もらっていたら上條社長から電話が来て「山崎さんきてくれや、今までとは全然違うやり方でやるんで是非頼む」と。それからずっと若手の指導。あれは山野かな。傷物のフェンダーを持ってきて直して納品するという仕事をやると。そいうことでずっと彼に教えてくれとか指導をずっとやってどのくらいになるかね?10何年?
5~6年前、ギブソンが検品を出さないことになってフジゲン自身が検品をやらなくなって、仕事がなくなっちゃうもんだから、大町を全部たたんで集結するということがありまして、是非残ってやってくれとは言われたが大町までというわけにもいかないので、そしたらすぐ杉本さんがすぐ明日から来てくれと(笑) あわててそちらにお世話になりました。3年半くらいいたかな。
でも仕事、仕事でやってたもんだから家の中がえらい騒ぎになってたから、これを整理してとにかく終活をはじめなきゃいかんと。それで辞めたんです。
ただ、杉本さんのところは高級品だからね。良かったですよ。
でねえ、俺もいままでそういうことでいろいろ沢山やってたけど、最後にああいう仕事が出来てよかったなあと。40万50万円のギターを80歳越えてもやってたんです。
キャラバンにも教えました。自分がいろんな色出しするでしょ?例えばゴールドの色を出すにも買えばたくさん買わなきゃいけないし、1本分やるにはシルバーと何と何の色でゴールドにする。そういうようなことを教えました。
俺は最後はよかったねえ83歳の半分くらいまでやったかな。
死ぬまでやってほしいと言われたけど。それでねえ・・寝ててもいいから来てくれと。
自分でいうのもおかしいけど。
(その他質問など)
思い出のギターは?
俺は塗装だけだもんでねえ。
グレコは?1968年から国内向けができましたが。
はいはい。やってました。むしろそのくらいの時が一番吹いてたかもしれない。管理職辞めて朝から晩まで塗装だからね。
一日何本やってたんですか?
みんなで分業でやってたんだけど、1日40〜50本はやるでしょうね。
独立して7人でやっていました。有限会社山崎塗装です。
その頃なんて言うかね、フジゲンでもやっかいな塗装を引き受けて。
たとえばあの頃ね、パール塗装、そういう新しいのが来ると山崎さんとこで先やってみてくれって担当者から言われてやるんです。そういうのはやりましたね。
GBは?
やりましたね。
Ibanez GB-10
セットネックは?
やりました。フェンダージャパンでも。とにかくなんでも。
やはり一番はスギでやったのが一番印象に残っているなあ。新しい、難しいやつをやるもんで。
早く言えば、(手元のビンテージギターギター)こういうのは楽なんです。誰でもできるんです。
あんまりこういうの(普通のギター)は印象に残っていないんです。自分で考えて、杉本さんから今度こういう注文が来たがどうやるかと。難しいやつをどうやってやるか考えてやるのが楽しみでした。
要するにどこでもやっていないのを考えてやるんだからあれは魅力、やりがいがあります。
ほんとはね、こんな環境でなかったらもっともっと長くお世話になりたかった。一生やりたいなあと思っていました。
管理職の方は全く才能はありません。人間そうなんですよ。すべてのことに秀でている人なんていませんから。
最後に、私(TAD館長)が趣味で作ったフジゲンのミニチュアギターを見ていただきました。
手で作ったことに大変驚いて「凄い!器用だなあ」とびっくりされていました
とにかくミニチュアのセンスがいいと塗装の神様にべた褒めに褒められて鼻高々なTAD館長なのであった。
おれもね、こういうのとは違うけど10代の後半に好きでナワテの縁日で10円で買ってきた将棋の駒を彫刻刀で彫るんです。そこを墨で埋めて、そんなことを朝飯終わったらちゃぶ台でやって夕方の4時までぶっ続けでやって・・そういうのが好きだったんです。
以上、山崎さんのインタビュー。
80歳過ぎても現役の職人として活躍したことは驚きですが、戦後の混乱期から裸一貫で塗装の神様とまで言われるまでになった努力と才能。誰もから引退を惜しまれたその技はきっと松本で受け継がれていくことでしょう。
記念撮影。TAD館長、山崎氏、横内氏
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2021.7/25
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